・・・じっと坐っていながら夢で鬼にでも追いかけられた時のように気ばかりせかせかしていました。 教場に這入る鐘がかんかんと鳴りました。僕は思わずぎょっとして立上りました。生徒達が大きな声で笑ったり呶鳴ったりしながら、洗面所の方に手を洗いに出かけ・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・僕はせかせかした気持ちになって、あっちこちを見廻わしました。 そうしたら中の口の格子戸に黒いものが挟まっているのを見つけ出しました。電燈の光でよく見ると、驚いたことにはそれが僕の帽子らしいのです。僕は夢中になって、そこにあった草履をひっ・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・ と祖母がせかせかござって、「御許さい、御許さい。」 と遠慮らしく店頭の戸を敲く。 天窓の上でガッタリ音して、「何んじゃ。」 と言う太い声。箱のような仕切戸から、眉の迫った、頬の膨れた、への字の口して、小鼻の筋から頤・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・姉は何をしたってせかせかだ。座敷を歩くたって品ぶってなど歩いてはいない。どしどし足踏みして歩く。起こされないたって寝ていられるもんでない。姉は二度起こしても省作がまだ起きないから、少しぷんとしてなお荒っぽく座敷を掃く。竈屋の方では、下女が火・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・その都度せかせかとこの橋を渡らねばならなかった。近頃は、弓形になった橋の傾斜が苦痛でならない。疲れているのだ。一つ会社に十何年間かこつこつと勤め、しかも地位があがらず、依然として平社員のままでいる人にあり勝ちな疲労がしばしばだった。橋の上を・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・ ――戎橋を一人の汚ない男がせかせかと渡って行った。 その男は誇張していえば「大阪で一番汚ない男」といえるかも知れない。髪の毛はむろん油気がなく、櫛を入れた形跡もない。乱れ放題、汚れ放題、伸び放題に任せているらしく、耳がかくれるくら・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・下鴨から鹿ヶ谷までかなりの道のりだが、なぜだか市電に乗る気はせず、せかせかと歩くのだ。 そんなあの人の恰好が眼に見えるようだ。高等学校の生徒らしく、お尻に手拭いをぶら下げているのだが、それが妙に塩垂れて、たぶん一向に威勢のあがらぬ恰好だ・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・二三日前に雪が降って、まだ雪解けの泥路を、女中と話しながら、高下駄でせかせかと歩いて行く彼女の足音を、自分は二階の六畳の部屋の万年床の中で、いくらか心許ない気持で聞いていた。自分の部屋の西向きの窓は永い間締切りにしてあるのだが、前の下宿の裏・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・と見せて笑って、「鶯が六羽いるというのは、この襖か。なるほど、六羽いる。部屋を換えたまえ。」とせかせか言いました。あなたは、あの時、てれていたのではないでしょうか。てれがくしに、襖の絵の事などおっしゃったのではないでしょうか。私が意味もなく・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・青扇は、せかせかした調子でなんども首肯きながら、眉をひそめ、何か遠いものを見ているようであった。「それでは、さきにごはんをたべましょう。お話は、それからゆっくりいたしましょうよ。」 僕はこのうえめしのごちそうになど、なりたくなかったので・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
出典:青空文庫