・・・ 連日の汗を旅館の温泉に流して、夕暮れの瀬川の音を座敷から聴いて、延びた頤髯をこすりながら、私はホッとした気持になって言った。「まあこれで、順序どおりには行ったし、思ったよりも立派にできた方ですよ。第一公式なんかの滑稽はかまわないと・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・また媒妁人は、大学で私たちに東洋美術史を教え、大隅君の就職の世話などもして下さった瀬川先生がよろしくはないか、という私の口ごもりながらの提案を、小坂氏一族は、気軽に受けいれてくれた。「瀬川さんだったら、大隅君にも不服は無い筈です。けれど・・・ 太宰治 「佳日」
・・・ こんな空想に耽りながら見ていると、簑の上に隙間なく並んでいる葉柄の切片が、なんだかこの隠れた小哲学者の書棚に背皮を並べた書物ででもあるような気がした。 この簑について思い出すのは、私が子供の時分に、母か誰かに教わったままに、簑虫の・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ 夜おそく仕事でもしている時に頭の上に忍びやかな足音がしたり、どこかでつつましく物をかじる音がしたりするうちはいいが、寝入りぎわをはげしい物音に驚かされたり、買ったばかりの書物の背皮を無惨に食いむしられたりするようになると少し腹が立って・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・洋書というものは唐本や和書よりも装飾的な背皮に学問と芸術の派出やかさを偲ばせるのが常であるのに、この部屋は余の眼を射る何物をも蔵していなかった。ただ大きな机があった。色の褪めた椅子が四脚あった。マッチと埃及煙草と灰皿があった。余は埃及煙草を・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・ あわてて立つ拍子にとりまとめた紙包を、まだ胸の前にたくしこみながら、小さい男の子をつれた瀬川牧子が、高い草の間から歩いて出て来た。「まあ。――どうして? まち伏せ?」 牧子は数年このかた埼玉の町に住んでいて、滅多に会うことも出・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・その最初の蒐集の中に、今再び埃の下から現れた赤いクロースの『太陽』だの『美奈和集』だの、もうどこかへ行って跡かたもない黒背皮の『白縫物語』だの『西鶴全集』の端本だのがあった。ポーの小説集二冊を母が何かの拍子で買って来てくれたことから、次第に・・・ 宮本百合子 「本棚」
・・・ 久保田はしばらく立って、本の背革の文字を読んでいた。わざと揃えたよりは、偶然集まったと思われる collection である。ロダンは生れつき本好で、少年の時困窮して、Bruxelles の町をさまよっていた時から、始終本を手にしてい・・・ 森鴎外 「花子」
・・・しかもその箱の半以上を、茶褐色の背革の大きい本三冊が占めていて、跡は小さい本と雑記帳とで填まっている。三冊の大きい本は極新しい。薄暗い箱から、背革に記してある金字が光を放っている。私は首を屈めて金字を読もうとした。「Meyer の小です・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・己はちょいと横目で、書棚にある書物の背皮を見た。グルンドヴィグ、キルケガアルド、ヤアコップ・ビョオメ、アンゲルス・シレジウス、それからギョオテのファウストなどがある。後に言った三つの書物は、背革の文字で見ると、ドイツの原書である。エルリング・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫