・・・しかしきょうは人かげもなければ、海水浴区域を指定する赤旗も立っていなかった。ただ広びろとつづいた渚に浪の倒れているばかりだった。葭簾囲いの着もの脱ぎ場にも、――そこには茶色の犬が一匹、細かい羽虫の群れを追いかけていた。が、それも僕等を見ると・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。 しかし亦権力も畢竟はパテントを得た暴力である。我我人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない。 「人間ら・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ が、赤旗を捲いて、袖へ抱くようにして、いささか逡巡の体して、「焼け過ぎる、これは、焼け過ぎる。」 と口の裡で呟いた、と思うともう見えぬ。顔を見られたら、雑所は灰になろう。 垣も、隔ても、跡はないが、倒れた石燈籠の大なのがあ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促だった。路地の入り口で牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜、鯣、鰯など一銭天婦羅を揚げ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・「でも近頃は節季近くと違って、幾らか閑散なんだろうね。それに一体にこの区内では余り大した事件が無いようだが、そうでもないかね?」「いや、いつだって同じことさ。ちょい/\これでいろんな事件があるんだよ」「でも一体に大事件の無い処だ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・街には到るところ、赤旗が流れていた。 そこでどうしたか。結局、こっちの条件が悪く、負けそうだったので、持って帰れぬ什器を焼いて退却した。赤旗が退路を遮った。で、戦争をした。そして、また退却をつづけた。赤旗は流行感冒のように、到るところに・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・暮れの節季には金がいるから十二月は日を詰めて働いたのであった。それに、前月分も半分は向うの都合でよこしていなかった。今、一文も渡さずに放り出すのは、あまりに悪辣である。健二は暫らく杜氏と押問答をしたが、結局杜氏の云うがまゝになって、男部屋へ・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 三 木代が、六十円ほどはいったが、年末節季の払いをすると、あと僅かしか残らなかった。予め心積りをしていた払いの外に紺屋や、樋直し、按摩賃、市公の日傭賃などが、だいぶいった。病気のせいで彼はよく肩が凝った。で、しょ・・・ 黒島伝治 「窃む女」
京一が醤油醸造場へ働きにやられたのは、十六の暮れだった。 節季の金を作るために、父母は毎朝暗いうちから山の樹を伐りに出かけていた。 醸造場では、従兄の仁助が杜氏だった。小さい弟の子守りをしながら留守居をしていた祖母・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・アメリカニズムのエロ姿によだれを流し、マルキシズムの赤旗に飛びつき、スターンバーグやクレールの糟をなめているばかりでは、いつまでたっても日本らしい映画はできるはずがないのである。 剣劇の股旅ものや、幕末ものでも、全部がまだ在来の歌舞伎芝・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫