・・・東京では、もうセル着て歩いているひとだってあるのよ。」運転手にまで、身なりの申しわけを言っていた。「あ、そこを右。」 宿が近づいて、かず枝は活気を呈して来た。「きっと、まだ寝ていることよ。」こんどは運転手に、「ええ、もすこしさき。」・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・一枚のマントは、海軍紺のセル地で、吊鐘マントでありました。引きずるほど、長く造らせました。少年もそのころは、背丈もひょろひょろ伸びて五尺七寸ちかくになっていましたので、そのマントは、悪魔の翼のようで、頗る効果がありました。このマントを着ると・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・久留米絣にセルの袴が、私の理想である。かたぎの書生の服装が、私の家の人たちを、最も安心させるだろう。そうでなければ、ごくじみな背広姿がよい。色つきのワイシャツや赤いネクタイなど、この場合、極力避けなければならぬ。私のいま持っている衣服は、あ・・・ 太宰治 「花燭」
・・・所謂民衆たちは、いよいよ怒り、舌鋒するどく、その役人に迫る。役人は、ますますさかんに、れいのいやらしい笑いを発して、厚顔無恥の阿呆らしい一般概論をクソていねいに繰りかえすばかり。民衆のひとりは、とうとう泣き声になって、役人につめ寄る。 ・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・更衣の季節で、オサダは逃げながら袷をセルに着換えた。 × どうなるのだ。私はそれまで既に、四度も自殺未遂を行っていた。そうしてやはり、三日に一度は死ぬ事を考えた。 × 中国との戦争はいつまでも・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・四年も昔の事であるから、記憶は、はっきりしないのだが、晩秋の一夜、ふたり揃って三鷹の陋屋に訪ねて来て、戸石君は絣の着物にセルの袴、三田君は学生服で、そうして私たちは卓をかこんで、戸石君は床の間をうしろにして坐り、三田君は私の左側に坐ったよう・・・ 太宰治 「散華」
・・・「かまわない。はいて行きたいのだ。」「だめですよ。」家内は、頑固であった。その仙台平なるものの思い出を大事にして、無闇に外に出して粗末にされたくないエゴイズムも在るようだ。「セルのが、あります。」「あれは、いけない。あれをはいて歩く・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・と小声で言って迫る男があらわれました。「うるさいよ。」 おかみさんは顔をしかめ、「売り物じゃないんだよ。」 と叫んで追い払います。 それから、妻は、まずい事を仕出かしました。突然お金を、そのおかみさんに握らせようとしたの・・・ 太宰治 「たずねびと」
・・・夜の十時頃、私が母と二人でお部屋にいて、一緒に父のセルを縫って居りましたら、女中がそっと障子をあけ、私を手招ぎ致します。あたし? と眼で尋ねると、女中は真剣そうに小さく二三度うなずきます。なんだい? と母が眼鏡を額のほうへ押し上げて女中に訊・・・ 太宰治 「誰も知らぬ」
・・・ともかくも力強く人に迫るある物を感ずる。」「重大な事柄を話そうとする人にふさわしいように、ゆっくり、そして一語一句をはっきり句切って話す。しかし少しも気取ったようなところはない。謙遜で、引きしまっていて、そして敏感である。ただ話が佳境に・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫