・・・しかし池畔からホテルへのドライヴウェーは、亭々たる喬木の林を切開いて近頃出来上がったばかりだそうであるが、樹々も路面もしっとり雨を含んで見るからに冷涼の気が肌に迫る。道路の真中に大きな樹のあるのを切残してあるのも愉快である。 スイスあた・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ セルディス、トオキイと映画芸術(高原富士郎。佐々木能理男・飯島正、前衛映画芸術論。映画科学研究、第八輯。新撰映画脚本集、下巻。以上ただ手に触れるに任せて一読しただけのものを並べたに過ぎない。すべてが良書だというわけでは・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ 季節が秋に入っていたので、夜の散歩には、どうかするとセルに袷羽織を引っかけて出るほどで、道太はお客用の褞袍を借りて着たりしていたが、その日はやはり帷子でも汗をかくくらいであった。 その前々晩に、遠所にいるお芳から電話がかかってきて・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・輻湊した狭い堀割の光景に馴らされていた眼には、突然濁った黄いろの河水が、岸の見えない低地の蘆をしたしつつ、満々として四方にひろがっているのを見ると、どうやら水害の惨状を望むが如く、俄に荒凉の気味が身に迫るのを覚えた。わたくしは東京の附近にこ・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・三十年を経て今日銀座のカッフェーに出没する無頼漢を見るに洋服にあらざればセルの袴を穿ち、中には自ら文学者と称していつも小脇に数巻の雑誌数葉の新聞紙を抱えているものもある。其の言語を聞くに多くは田舎の訛りがある。 ここに最奇怪の念に堪えな・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行いた事を記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。余は夏蜜柑の皮を剥いて、一房ごとに裂いては噛み、裂いては噛んで、あてどもなくさ・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ ただし我が輩はもとより強迫法を賛成する者にして、全国の男女生れて何歳にいたれば必ず学につくべし、学につかざるをえずと強いてこれに迫るは、今日の日本においてはなはだ緊要なりと信ずれども、その学問の風をかくの如くして、その教授の書籍は何を・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・けれども熱のある間は呼吸が迫るので仕事はちっともはかどらぬ。それのみでない蒲団の上に横になって、右の肱をついて、左の手に原稿紙を持って、書く時には原稿紙の方を動かして右の手の筆の尖へ持って往てやるという次第だから、ただでも一時間か二時間かや・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・この小説が後半まで書き進められたとき、作者の心魂に今日のその顔が迫ることはなかったのだろうか。愛と死の現実には、歴史が響き轟いているのである。 武者小路氏はルオウの画がすきで、この画家が何処までも自分というものを横溢させてゆく精力を愛し・・・ 宮本百合子 「「愛と死」」
・・・女というものをめぐって扱われている部分だけ見較べても、胸迫る感想があるのである。今日はどこ、明日はどこと見てまわって、書かれた文章が見るにせわしい調子をつたえているばかりでなく、見るべき場所、事柄の社会的自然的事情について作家たちの科学的知・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
出典:青空文庫