・・・軒の下には宙に吊った、小さな木鶴の一双いが、煙の立つ線香を啣えている。窓の中を覗いて見ると、几の上の古銅瓶に、孔雀の尾が何本も挿してある。その側にある筆硯類は、いずれも清楚と云うほかはない。と思うとまた人を待つように、碧玉の簫などもかかって・・・ 芥川竜之介 「奇遇」
・・・僕の方の大学にも、今年は一人維新史を専攻した学生がいる。――まあそんな事より、大に一つ飲み給え。」 霙まじりの雨も、小止みになったと見えて、もう窓に音がしなくなった。女連れの客が立った後には、硝子の花瓶にさした菜の花ばかりが、冴え返る食・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・あるいは先後を定めるのに迷って居ったのかもわかりませぬ。いや、突のはいったのは面に竹刀を受けるよりも先だったかもわかりませぬ。けれどもとにかく相打ちをした二人は四度目の睨み合いへはいりました。すると今度もしかけたのは数馬からでございました。・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・――この時の事は後になっても、和尚贔屓の門番が、樒や線香を売る片手間に、よく参詣人へ話しました。御承知かも知れませんが、日錚和尚と云う人は、もと深川の左官だったのが、十九の年に足場から落ちて、一時正気を失った後、急に菩提心を起したとか云う、・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・その中に線香の紙がきわだって赤い。これでも人を埋めるのだ。私はこの石ばかりの墓場が何かのシンボルのような気がした。今でもあの荒涼とした石山とその上の曇った濁色の空とがまざまざと目にのこっている。 温かき心 中禅寺から・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・それから新らしい潜航艇や水上飛行機も見えないことはなかった。しかしそれ等は××には果なさを感じさせるばかりだった。××は照ったり曇ったりする横須賀軍港を見渡したまま、じっと彼の運命を待ちつづけていた。その間もやはりおのずから甲板のじりじり反・・・ 芥川竜之介 「三つの窓」
・・・わたしは――まだ子供だったわたしはやはりこう云う日の暮に線香花火に火をつけていた。それは勿論東京ではない。わたしの父母の住んでいた田舎の家の縁先だった。すると誰かおお声に「おい、しっかりしろ」と云うものがあった。のみならず肩を揺すぶるものも・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・「所縁にも、無縁にも、お爺さん、少し墓らしい形の見えるのは、近間では、これ一つじゃあないか――それに、近い頃、参詣があったと見える、この線香の包紙のほぐれて残ったのを、草の中に覗いたものは、一つ家の灯のように、誰だって、これを見当に辿り・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・流転のあとと、栄花の夢、軒は枯骨のごとく朽ちて、牡丹の膚は鮮紅である。 古蓑が案山子になれば、茶店の骸骨も花守をしていよう。煙は立たぬが、根太を埋めた夏草の露は乾かぬ。その草の中を、あたかも、ひらひら、と、ものの現のように、いま生れたら・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ 分けて、盂蘭盆のその月は、墓詣の田舎道、寺つづきの草垣に、線香を片手に、このスズメの蝋燭、ごんごんごまを摘んだ思出の可懐さがある。 しかもそのくせ、卑怯にも片陰を拾い拾い小さな社の境内だの、心当の、邸の垣根を覗いたが、前年の生垣も・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
出典:青空文庫