・・・ 促して尋ねると、意外千万、「そのお金が五百円、その晩お手箪笥の抽斗から出してお使いなさろうとするとすっかり紛失をしていたのでございます、」と句切って、判事の顔を見て婆さんは溜息を吐いたが、小山も驚いたのである。 赤羽停車場の婆・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・声でケイサツを馬鹿呼ばりし、自分の息子を賞め、こんなことになったのは他人にだまされたんだと云い、息子をとられて、これからどう暮して行くんだ――それだけの事を文句も順序も同じに繰りかえして、進は腕のいゝ旋盤工で、これからどの位出世をするのか分・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・「先晩はどうも。」僕は流石に恥かしい思いであった。「いいえ。」青扇はすましこんでいた。「あなた、これは木曾川の上流ですよ。」 僕は、青扇の瞳の方向によって、彼が湯槽のうえのペンキ画について言っているのだということを知った。「・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・その二人の女のうち笹眉をひそめて笑う小柄のひとに、千万の思いをこめて見つめる私の瞳の色が、了解できずに終ったようだ。ひらっと、できるだけ軽快に身をひるがえして雨の中へおどり出た。つばめのようにはいかなかった。あやうく滑ってころぶところであっ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・と、千万の思慕の情をこめて言ってみた。そろそろ肉が無くなって、群烏は二羽立ち、五羽立ち、むらむらぱっと大部分飛び立ち、あとには三羽、まだ肉を捜して居残り、魚容はそれを見て胸をとどろかせ手に汗を握ったが、肉がもう全く無いと見てぱっと未練げも無・・・ 太宰治 「竹青」
・・・クレオパトラでも三毛ねこでも畢竟は天然の陶工の旋盤なしにひねり出した壺である。この壺の中味が問題になるのであろう。 粘土がなくては陶器はできないが粘土があっただけではやはり陶器はできない。これはあたりまえである。しかしこのあたりまえな事・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・実はここへ出て参る前ちょっと先番の牧君に相談をかけた事があるのです。これは内々ですが思い切って打明けて御話ししてしまいます。と云うほどの秘密でもありませんが、全くのところ今日の講演は長時間諸君に対して御話をする材料が不足のような気がしてなら・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・ 工場では、モーターや、ベルトや、コムベーヤーや、歯車や、旋盤や、等々が、近代的な合奏をしていた。労働者が、緊張した態度で部署に縛りつけられていた。 吉田はその工場に対してのある策戦で、蒸暑い夜を転々として考え悩んでいた。 蚊帳・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・一 教育の進歩と共に婦人が身柄にあるまじきことを饒舌り、甚だしきは奇怪千万なる語を用いて平気なるは、浅見自から知らざるの罪にして唯憐む可きのみ。其原因様々なる中にも、少小の時より教育の方針を誤りて自尊自重の徳義を軽んじ、万有自然の数理を・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・元来西洋の人は我が日本の事情に暗くして、ややもすれば不都合千万なる謬見を抱く者少なからず。就中彼らは耶蘇教の人なるが故に、己れの宗旨に同じからざる者を見れば、千百の吟味詮索は差置き、一概にこれを外教人と称して、何となく嫌悪の情を含み、これが・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
出典:青空文庫