・・・幸い、私達は、みんなよく顔が人間に似ているばかりでなく、胴から上は全部人間そのままなのであるから――魚や獣物の世界でさえ、暮らされるところを見れば――その世界で暮らされないことはない。一度、人間が手に取り上げて育ててくれたら、決して無慈悲に・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・かね又は新世界にも千日前にも松島にも福島にもあったが、全部行きました。が、こんな食気よりも私をひきつけたものはやはり夜店の灯です。あのアセチリン瓦斯の匂いと青い灯。プロマイド屋の飾窓に反射する六十燭光の眩い灯。易者の屋台の上にちょぼんと置か・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 三味線をいれた小型のトランク提げて電車で指定の場所へ行くと、すぐ膳部の運びから燗の世話に掛る。三、四十人の客にヤトナ三人で一通り酌をして廻るだけでも大変なのに、あとがえらかった。おきまりの会費で存分愉しむ肚の不粋な客を相手に、息のつく・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・露骨なところを申しあげれば、私には全部売払ったとしてもせいぜい往復の費用が出るかどうかという程度だろうと思いますがね、……これでは何分にも少しひどい」 いかに何でも奥州下んだりから商売の資本を作るつもりで、これだけの代物を提げてきたとい・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」 喬はそんなことを思った。毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑――病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・と差出したのは封紙のない手紙である、大友は不審に思い、開き見ると、前略我等両人当所に於て君を待つこと久しとは申兼候え共、本日御投宿と聞いて愉快に堪えず、女中に命じて膳部を弊室に御運搬の上、大いに語り度く願い候神崎朝田・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・だから僕は父に頼んで来年の三月までの給料は全部僕が貰うことにした。だから四月早々は出立るだろうと思う」 桂正作の計画はすべてこの筆法である。彼はずいぶん少年にありがちな空想を描くけれども、計画を立ててこれを実行する上については少年の時か・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・それには、アルファベットとアラビア数字がきれぎれに、一字一字、全部で三十字ほど折れ釘のように並んでいた。クヅネツォフは、対岸の、北の村に住んでいる富農だ。パン粉を買い占めたり、チーズを買い占めたり、そして、それを労働者に高くで売りつける。そ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・しかし今では川の様子が全く異いまして、大川の釣は全部なくなり、ケイズの脈釣なんぞというものは何方も御承知ないようになりました。ただしその時分でも脈釣じゃそう釣れない。そうして毎日出て本所から直ぐ鼻の先の大川の永代の上あたりで以て釣っていては・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 按摩済む頃、袴を着けたる男また出で来りて、神酒を戴かるべしとて十三、四なる男の児に銚子酒杯取り持たせ、腥羶はなけれど式立ちたる膳部を据えてもてなす。ここは古昔より女のあることを許さねば、酌するものなどすべて男の児なるもなかなかにきびき・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
出典:青空文庫