・・・私は、総身に冷水を浴びせられたように、ぞっとしました。「ごめん下さい。大谷さん」 こんどは、ちょっと鋭い語調でした。同時に、玄関のあく音がして、「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」 と、はっきり怒っている声で言うのが聞え・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ なかば喪心の童子の鼻柱めがけて、石、投ぜられて、そのとき、そもそも、かれの不幸のはじめ、おのれの花の高さ誇らむプライドのみにて仕事するから、このような、痛い目に逢うのだ。芸術は、旗取り競争じゃないよ。それ、それ。汚い。鼻血。見るがいい、君・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・寝床に寝たきりなのでございますが、それでも、陽気に歌をうたったり、冗談言ったり、私に甘えたり、これがもう三、四十日経つと、死んでゆくのだ、はっきり、それにきまっているのだ、と思うと、胸が一ぱいになり、総身を縫針で突き刺されるように苦しく、私・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
・・・縮緬のすらりとした膝のあたりから、華奢な藤色の裾、白足袋をつまだてた三枚襲の雪駄、ことに色の白い襟首から、あのむっちりと胸が高くなっているあたりが美しい乳房だと思うと、総身が掻きむしられるような気がする。一人の肥った方の娘は懐からノートブッ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・幾日も喪心者のようになって彷徨したと云っている。一つは年の若かったせいでもあろうが、その時の心持はおそらくただ選ばれたごく少数の学者芸術家あるいは宗教家にして始めて味わい得られる種類のものであったろう。三 アインシュタインの・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 自働電話の送信器の数字盤が廻るときのカチカチ鳴る音と自働連続機のピカピカと光る豆電燈の瞬きもやはり同じような考えを応用して出来た機構の産物であると見れば見られなくはないであろう。 このように、二千年前の骨董の塵の中にも現代最新の発・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・痩せ細った総身の智略を振絞って防備の陣を張らなくてはならない。防備の陣を張るにも先立つものは矢張金である。金を獲るには僕の身としては書くのが一番の捷径であろう。恥も糞もあるものかと思いさだめて、一気呵成に事件の顛末を、まずここまで書いて見た・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・昨日までは擦れ合う身体から火花が出て、むくむくと血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて総身に煮浸み出はせぬかと感じた。東京はさほどに烈しい所である。この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下りた余は、あたかも三伏の日に照りつけられた焼石・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・文鳥はこの華奢な一本の細い足に総身を託して黙然として、籠の中に片づいている。 自分は不思議に思った。文鳥について万事を説明した三重吉もこの事だけは抜いたと見える。自分が炭取に炭を入れて帰った時、文鳥の足はまだ一本であった。しばらく寒い縁・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・馬は総身に汗をかいて、白い泡を吹いているに、乗手は鞭を鳴らして口笛をふく。戦国のならい、ウィリアムは馬の背で人と成ったのである。 去年の春の頃から白城の刎橋の上に、暁方の武者の影が見えなくなった。夕暮の蹄の音も野に逼る黒きものの裏に吸い・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫