・・・ 亜米利加人はそう言いながら、新しい巻煙草へ火をつけました。「占いですか? 占いは当分見ないことにしましたよ」 婆さんは嘲るように、じろりと相手の顔を見ました。「この頃は折角見て上げても、御礼さえ碌にしない人が、多くなって来・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・或時は前へ立ったまま、両手を左右に挙げて見せたり、又或時は後へ来て、まるで眼かくしでもするように、そっと妙子の額の上へ手をかざしたりするのです。もしこの時部屋の外から、誰か婆さんの容子を見ていたとすれば、それはきっと大きな蝙蝠か何かが、蒼白・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 松山へ来てから二月余り後、左近はその甲斐があって、ある日城下に近い海岸を通りかかると、忍駕籠につき添うた二人の若党が、漁師たちを急がせて、舟を仕立てているのに遇った。やがて舟の仕度が出来たと見えて、駕籠の中の侍が外へ出た。侍はすぐに編・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・彼はただ道に沿うた建仁寺垣に指を触れながら、こんなことを僕に言っただけだった。「こうやってずんずん歩いていると、妙に指が震えるもんだね。まるでエレキでもかかって来るようだ。」 三 彼は中学を卒業してから、一・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・僕は当時長江に沿うた大抵の都会に幻滅していたから、長沙にも勿論豚の外に見るもののないことを覚悟していた。しかしこう言う見すぼらしさはやはり僕には失望に近い感情を与えたのに違いなかった。 江丸は運命に従うようにじりじり桟橋へ近づいて行った・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・波が波打際でくだけるのではなく、少し沖の方に細長い小山のような波が出来て、それが陸の方を向いて段々押寄せて来ると、やがてその小山のてっぺんが尖って来て、ざぶりと大きな音をたてて一度に崩れかかるのです。そうすると暫らく間をおいてまたあとの波が・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・どうしてもお前達を子守に任せておけないで、毎晩お前たち三人を自分の枕許や、左右に臥らして、夜通し一人を寝かしつけたり、一人に牛乳を温めてあてがったり、一人に小用をさせたりして、碌々熟睡する暇もなく愛の限りを尽したお前たちの母上が、四十一度と・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・鼠色に塗った壁に沿うて、黒い椅子が一列に据えてある。フレンチの目を射たのは、何よりもこの黒い椅子であった。 さて一列の三つ目の椅子に腰を卸して、フレンチは一間の内を見廻した。その時また顫えが来そうになったので、フレンチは一しょう懸命にそ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・不機嫌な返事をして、神経の興奮を隠そうとしている。さて黒の上衣を着る。髯を綺麗に剃った顋の所の人と違っている顔が殊更に引き立って見える。食堂へ出て来る。 奥さんは遠慮らしく夫の顔を一寸見て、すぐに横を向いて、珈琲の支度が忙しいというよう・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・次の刹那には、足取り行儀好く、巡査が二人広間に這入って来て、それが戸の、左右に番人のように立ち留まった。 次に出たのが本人である。 一同の視線がこの一人の上に集まった。 もしそこへ出たのが、当り前の人間でなくて、昔話にあるような・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
出典:青空文庫