・・・れが本葬で、香奠は孰にしても公に下るのが十五円と、恁云う規則なんでござえんして…… それで、『大瀬、お前は晴二郎の死骸を、此まま引取って行くか、それとも此方で本葬をして骨にして持って行くか、孰でも其方の都合にするが可い』と、まあ恁う仰っ・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ ここまでは、一人も人に逢わなかったが、板塀の彼方に奉納の幟が立っているのを見て、其方へ行きかけると、路地は忽ち四方に分れていて、背広に中折を冠った男や、金ボタンの制服をきた若い男の姿が、途絶えがちながら、あちこちに動いているのを見た。・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・』 若子さんが眼で教えて下さったので、其方を見ましたら、容色の美しい、花月巻に羽衣肩掛の方が可怖い眼をして何処を見るともなく睨んで居らしッたの。それは可怖い目、見る物を何でも呪って居らッしゃるんじゃないかと思う位でした。 私も覚えず・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・家に遺伝の遺産ある者、又高運にして新に家を成したる者、政府の官吏、会社の役人、学者も医者も寺の和尚も、衣食既に足りて其以上に何等の所望と尋ぬれば、至急の急は則ち性慾を恣にするの一事にして、其方法に陰あり陽あり、幽微なるあり顕明なるあり、所謂・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・るのみ、果して其意味を解釈するも事に益することなきは実際に明なる所にして、例えば和文和歌を講じて頗る巧なりと称する女学史流が、却て身辺の大事を忘却して自身の病に医を択ぶの法を知らず、老人小児を看病して其方法を誤り、甚しきは手相家相九星八卦等・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・わしの戦ぎは総て世の中の熟したものの周囲に夢のように動いておるのじゃ。其方もある夏の夕まぐれ、黄金色に輝く空気の中に、木の葉の一片が閃き落ちるのを見た時に、わしの戦ぎを感じた事があるであろう。凡そ感情の暖かい潮流が其方の心に漲って、其方が大・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・裁判官が再三注意を与えて、七、其方は火をつけたのではあるまい、火を運んで居て誤って落したのであろう、などというたかもしらぬ。その時お七はわろびれずに、いいえ、吉三さんに逢いたいばかりに、火をつけたらもし逢わりょうかと思うて、つけたのでござい・・・ 正岡子規 「恋」
・・・ はあ、と云って立って居るのでもう一度同じ言葉を繰返すと、その青年は、ひどく心得た調子で「まあどうぞ其方へおかけ下さい」と、まるで自分が主人ででもあるような口調で私に、彼にすすめる椅子を進めた。「荷物がありますから」 ち・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・ 雑信 C先生。 其方は如何でございますか、此の紐育から二百哩程隔った湖畔は、近頃殆ど毎日の雨に降り籠められて居ります。或時は、俄に山巓を曇らせて降り注ぐ驟雨に洗われ、或時はじめじめと陰鬱・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・左手はずっと砂丘つづきで、ぼんやり灰色にかすんでいる。其方の方に向って、私の家の女中が一人で一生懸命に走って行く姿が小さく見える。良人が、「何にしに行くのだ?」と云うようなことを訊いた。私は其方を眺め、なかなか遠く迄行かなければなら・・・ 宮本百合子 「静かな日曜」
出典:青空文庫