ドゥニパー湾の水は、照り続く八月の熱で煮え立って、総ての濁った複色の彩は影を潜め、モネーの画に見る様な、強烈な単色ばかりが、海と空と船と人とを、めまぐるしい迄にあざやかに染めて、其の総てを真夏の光が、押し包む様に射して居る・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・家計の困難を悲むようなら、なぜ富貴の家には生れ来ぬぞ……その時先生が送られた手紙の文句はなお記憶にある……其の胆の小なる芥子の如く其の心の弱きこと芋殻の如し、さほどに貧乏が苦しくば、安ぞ其始め彫ちょうい錦帳の中に生れ来らざりし。破壁・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・女の顔は浅黒いのが宜いというけれど、これとて直ちにそれが浅黒いと見えるのでは無く、白い下地が有って、始めて其の浅黒さを見せるのである。 色の白いのは七難隠すと、昔の人も云った。しかしながら、ただ色が白いというのみで意気の鈍い女の顔は、黄・・・ 泉鏡花 「白い下地」
・・・第一言い伝えの話が非常に詩的だし、期節はすがすがしい若葉の時だし、拵えようと云い、見た風と云い、素朴の人の心其のままじゃないか。淡泊な味に湯だった笹の香を嗅ぐ心持は何とも云えない愉快だ」「そりゃ東京者の云うことだろう。田舎に生活してる者・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・日中は熱いからと思ってこんなに早く出掛けてきたのさ、それではお前の分にも一丁買ってきてやるから、折角丹誠してくれやて、云ったら何んでも眼をうるましたようだった、其時のあの女の顔をおれは未だに覚えてる、其の後、家のおやじに話して小作米の残り三・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・自分の子でさえ親の心の通りならないで不幸者となり女の子が年頃になって人の家に行き其の夫に親しくして親里を忘れる。こんな風儀はどこの国に行っても変った事はない。 加賀の国の城下本町筋に絹問屋左近右衛門と云うしにせあきんどがあった。其の身は・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・筆されべき二大戦役を通過した日本の最近二十五ヵ年間は総てのものを全く一変して、恰も東京市内に於ける旧江戸の面影を尽く亡ぼして了ったと同様に、有らゆる思想にも亦大変革を来したが、生活に対する文人の自覚は其の重なる事象の一つであろう。 二十・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・のではない、万人の斉く之に与からんことを欲するのである、義を慕う者は義の国を望むのである、而して斯かる国の斯世に於て無きことは言わずして明かである、義の国は義の君が再び世に臨り給う時に現わる、「我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望み・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・私は其処に新しい詩材を見出すことが出来るように覚えて観察を怠るまいと思った。 此時始めてこの二軒長屋の一軒が、戸を開けてあるのを見て驚いた。もう此家は疾に起きていると思われたからだ。私は其の時からこの家にはどういう人々が住んでいるだろう・・・ 小川未明 「ある日の午後」
・・・ というが如きは、却って、其の親達の心事をば悲しまずにいられません。 かゝる無理な場合でも、子供は、母親に対し、不明な教師に対して、抗議する何等の力を持っていない。それ故に母親が自から改めなければ、強権の力を頼んでも試験勉強の如きを廃し・・・ 小川未明 「お母さんは僕達の太陽」
出典:青空文庫