・・・ と、腰を切って、胸を反らすと、再び尾から頭へ、じりじりと響を打たして釣下げる。これ、値を上げる寸法で。「しゃッ、十貫十ウ、十貫二百、三百、三百ウ。」 親仁の面は朱を灌いで、その吻は蛸のごとく、魚の鰭は萌黄に光った。「力は入・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・よう、という顔色にて、兀頭の古帽を取って高く挙げ、皺だらけにて、ボタン二つ離れたる洋服の胸を反らす。太きニッケル製の時計の紐がだらりとあり。村越 さあ、どうぞ。七左 御免、真平御免。腰を屈め、摺足にて、撫子の前を通り、す・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・そうして、葬儀場は時として高官の人が盛装の胸を反らす晴れの舞台となり、あるいは淑女の虚栄の暗闘のアレナとなる。今北海の町に来て計らずこのつつましやかな葬礼を見て、人世の夕暮れにふさわしい昔ながらの行事のさびしおりを味わうことが出来たような気・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・と女は二人の眼を嬉しがらしょうともせず、膝に乗せた右手をいきなり後ろへ廻わして体をどうと斜めに反らす。丈長き黒髪がきらりと灯を受けて、さらさらと青畳に障る音さえ聞える。「南無三、好事魔多し」と髯ある人が軽く膝頭を打つ。「刹那に千金を惜し・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ 女将は、白い木綿の襟を見せた縞の胸元を反らすようにし、自分の掌を表かえし裏かえし見た。「まあ、一寸見せてさ」「へえ、何どっしゃろ……偉い可愛らしい手どっせ」 肉の薄い血色のわるい掌であった。然し、彼女がたった三本だけ名を知・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ところの明日から目を逸らすことが出来ない。ゴーリキイは彼等のように生きてしまった人々の一人ではなかった。ゴーリキイは生きつつある者、しかも熱烈に生きんとしているものの一人なのである。「このことが、彼等から私を去らしめた。」マクシム・ゴーリキ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫