・・・すると、病人は直ぐ「看護婦さん、そりゃ間違っているでしょう。お母さん脈」といって手を差出しました。私はその手を握りながら「ああ脈は百十だね、呼吸は三十二」と訂正しました。普段から、こんな風に私は病人の苦痛を軽くする為に、何時も本当のことは言・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ というふうなことを言っていたが、「そりゃおまえがびっくりすると思うてさ」 そう言いながら母は自分がそれを言ったことは別に意に介してないらしいので吉田はすぐにも「それじゃあんたは?」と聞きかえしたくなるのだったが、今はそんなこと・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・「母上さん、そりゃア貴女軍人が一番お好きでしょうよ」とじろりその横顔を見てやる。母のことだから、「オヤ異なことを言うね、も一度言って御覧」と眼を釣上げて詰寄るだろう。「御気に触わったら御勘弁。一ツ差上げましょう」と杯を奉まつる。・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・「ふむ。そりゃ、まあえいが、中学校を上ったって、えらい者になれやせんぜ。」「うちの源さん、まだ上へやる云いよらあの。」「ふむ。」と、叔父は、暫らく頭を傾けていた。「庄屋の旦那が、貧乏人が子供を市の学校へやるんをどえらい嫌うと・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・「そりゃそういえば確にそうだが、忍術だって入用のものだから世に伊賀流も甲賀流もある。世間には忍術使いの美術家もなかなか多いよ。ハハハ。」「御前製作ということでさえ無ければ、少しも屈托は有りませんがナア。同じ火の芸術の人で陶工の愚斎は・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・「次郎ちゃん、ここの植木はどうなるんだい。」 この弟の言葉を聞くと、それまで妹と一緒に黒板の前に立って何かいたずら書きをしていた次郎が、白墨をそこに置いて三郎のいるほうへ行った。「そりゃ、引っこ抜いて持って行ったって、かまうもん・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・「まあ、でも、あんなところさ。そりゃもう、僕にくらべたら、どんな男でも、あほらしく見えるんだからね。我慢しな。」「そりゃ、そうね。」 娘さんは、その青年とあっさり結婚する気でいるようであった。 先夜、私は大酒を飲んだ。いや、・・・ 太宰治 「朝」
・・・葉書が来ない。そりゃ高慢になった。来た。そりゃ見せびらかす。チルナウエルの身になっては、どうして好いか分からない。 竜騎兵中尉も消え失せたようにいなくなった。いつも盛んな事ばかりして、人に評判せられたものが、今はどこにいるか、誰も知らな・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・自分は dy をやりながら聞くともなしに二人の対話を聞いていたら、雪ちゃんの声で「……角の店のを食ったの。そりゃホントニおいしいのよ。オソラク」と云った。このオソラクが甲走った声であったので、自分はふと耳を立てると、男の声で「オソラクってそ・・・ 寺田寅彦 「雪ちゃん」
・・・深水はからだをのりだすようにして、「そりゃええ、パトロンが出来たなら、鬼に金棒さ、うん――」 ゆあがりの胸をひろげて、うちわを大げさにうごかしている。頭髪にチックをつけている深水は、新婚の女房も意識にいれてるふうで、「――わしも・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫