・・・ 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」「嘘をつけ。今その窓から外を見ていたのは、確に御嬢さんの妙子さんだ」 遠藤は片手にピストルを握ったまま、片手に次の間の戸口を指さしました。「それでもまだ剛情を張るんなら・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・Mは後から大声をあげて、「そんなにそっちへ行くと駄目だよ、波がくだけると捲きこまれるよ。今の中に波を越す方がいいよ」 といいました。そういわれればそうです。私と妹とは立止って仕方なく波の来るのを待っていました。高い波が屏風を立てつら・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・しかしフレンチの方では、神聖なる義務を果すという自覚を持っているのだから、奥さんがどんなに感じようが、そんな事に構まってはいられない。 ところが不思議な事には、こういう動かすべからざる自覚を持っているくせに、絶えず体じゅうが細かく、不愉・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ しかしそんな優しい霊の動きは、壊された、あらゆる夢、殺された、あらゆる望の墓の上に咲く花である。 それだから、好い子、お前は釣をしておいで。 お前は無意識に美しい権利を自覚しているのであるから。 魚を殺せ。そして釣れ。・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・時々はまた怒って人間に飛付いて噛もうとしたが、そんな時は大抵杖で撲たれたり、石を投付けられたりして、逃げなければならぬのであった。ある年の冬番人を置いてない明別荘の石段の上の方に居処を占めて、何の報酬も求めないで、番をして居た。夜になると街・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・B 君は何日か――あれは去年かな――おれと一緒に行って淫売屋から逃げ出した時もそんなことを言った。A そうだったかね。B 君はきっと早く死ぬ。もう少し気を広く持たなくちゃ可かんよ。一体君は余りアンビシャスだから可かん。何だって真・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・――なるほど、そんなものも居そうに思って、ほぼその色も、黒の処へ黄味がかって、ヒヤリとしたものらしく考えた。 後で拵え言、と分かったが、何故か、ありそうにも思われる。 それが鳴く……と独りで可笑しい。 もう、一度、今度は両手に両・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・「ああそうかい、なるほどそういえばだれかからそんな噂を聞いたっけ」 手拭を頭に巻きつけ筒袖姿の、顔はしわだらけに手もやせ細ってる姉は、無い力を出して、ざくりざくり桑を大切りに切ってる。薄暗い心持ちがないではない。お光さんは予には従姉・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・とうわさをして居たら、半年もたたない中に此の娘は男を嫌い始めて度々里の家にかえるので馴染もうすくなり、そんな風ではととうとう三条半を書いてやる。 まもなく後に菊酒屋と云う有名な酒屋にやった所がここも秋口から物やかましいといやがられたので・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・「そんなことはないさ、」と、僕はなぐさめながら、「君は、もう、名誉の歴史を終えたのだから、これから別な人間のつもりで、からだ相応な働きをすればいいじゃアないか?」「それでも、君、戦争でやった真剣勝負を思うたら、世の中でやっとることが不真・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
出典:青空文庫