・・・と言うのは他意のある訣ではない。前借の見込みも全然絶え、父母兄弟とも喧嘩をした今、たとえ東京へ出かけたにもせよ、金の出来ないことは明らかである。すると十円を返すためにはこの十円札を保存しなければならぬ。この十円札を保存するためには、――保吉・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 夫はタイを結びながら、鏡の中のたね子に返事をした。もっともそれは箪笥の上に立てた鏡に映っていた関係上、たね子よりもむしろたね子の眉に返事をした――のに近いものだった。「だって帝国ホテルでやるんでしょう?」「帝国ホテル――か?」・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・「それはそうだ。タイプライタアなどは幾らかになるだろう」「ええ、それから画などもあるし」「次手にNさんの肖像画も売るか? しかしあれは……」 僕はバラックの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画を見ると、迂濶に常談も言われない・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ ゆえに渠は泰然と威厳を存して、他意なく、懸念なく、悠々としてただ前途のみを志すを得るなりけり。 その靴は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音を送りつつ、行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木門の・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・プラトンのように寓話的なもの、ショウペンハウエルのように形而上学的なもの、エレン・ケイのような人格主義的なもの、フロイドのように生理・心理学的なもの、スタンダールのように情緒的直観的のもの、コロンタイのように階級的社会主義的のもの、その他幾・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・、音楽家や、画家、小説家のような芸術的天分ある婦人や、科学者、女医等の科学的才能ある婦人、また社会批評家、婦人運動実行家等の社会的特殊才能ある婦人はいうまでもなく、教員、記者、技術家、工芸家、飛行家、タイピストの知能的職業方面への婦人の進出・・・ 倉田百三 「婦人と職業」
・・・ 郵便局では、隣にある電信隊の兵タイが、すぐやってきて、札を透かしたり指でパチ/\はじいたりした。珍しそうにそれを眺め入った。「うまくやる奴もあるもんだね。よくこんなに細かいところまで似せられたもんだ。」「すかしが一寸、はっきり・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・……兵タイも沢山死んどるだ。」「うそ云え!」兵士は、百姓の頬をぴしゃりとやった。「一寸来い。中隊まで来い!」 日本の兵士が雪に埋れていることが明かになった。背嚢の中についていた記号は、それが、松木と武石の中隊のものであることを物語っ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 貴様ら、横着をして兵タイのいるいい道を選って行っとるんだろう。この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促の手紙が来とるんだぞ!」 朝、深沢洋行のおやじは、ねむげな眼に眼糞をつけて支那人部屋にはいってきた。呉清輝と田川とは、傷の痛さに唸りな・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・「寒い満洲でも、兵タイは、こういう温い部屋に起居して居るんで……」「はア、なる程。」特派員は、副官の説明に同意するよりさきに、部屋の内部の見なれぬ不潔さにヘキエキした。が、すぐ、それをかくして、「この中隊が、嫩江を一番がけに渡ったん・・・ 黒島伝治 「前哨」
出典:青空文庫