・・・が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。「何か御用ですか?」 婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手の顔を見ました。・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 四里にわたるこの草原の上で、たった一度妻はこれだけの事をいった。慣れたものには時刻といい、所柄といい熊の襲来を恐れる理由があった。彼れはいまいましそうに草の中に唾を吐き捨てた。 草原の中の道がだんだん太くなって国道に続く所まで来た・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ たった一度人が彼に憫みを垂れたことがある。それは百姓で、酒屋から家に帰りかかった酔漢であった。この男は目にかかる物を何でも可哀がって、憐れで、ああ人間というものは善いものだ、善い人間が己れのために悪いことをするはずがない、などと口の中・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・おれはどうも初め思いたった時、君のやりそうなこったと思った。A 今でもやりたいと思ってる。たった一月でも可い。B どうだ、おれん処へ来て一緒にやらないか。可いぜ。そして飽きたら以前に帰るさ。A しかし厭だね。B 何故。おれと・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・肩も脛も懐も、がさがさと袋を揺って、「こりゃ、何よ、何だぜ、あのう、己が嫁さんに遣ろうと思って、姥が店で買って来たんで、旨そうだから、しょこなめたい。たった一ツだな。みんな嫁さんに遣るんだぜ。」 とくるりと、はり板に並んで向をかえ、・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ときく様子は腰や足がとくにちゃんと止まって居られない様にフラフラして気味がわるいので皆んな何とも云わずに家へ逃げかえってしまった、その中にたった一人岩根村の勘太夫の娘の小吟と云うのはまだ九つだったけれ共にげもしないでおとなしく、「もう少し行・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・十二枚袋入がたった一朱であった。袋の文字は大河内侯の揮毫を当時の浅草区長の町田今輔が雕板したものだそうだ。慾も得もない書放しで、微塵も匠気がないのが好事の雅客に喜ばれて、浅草絵の名は忽ち好事家間に喧伝された。が、素人眼には下手で小汚なかった・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・なんだか女学生が、今死んでいるあたりから、冷たい息が通って来て、自分を凍えさせるようである。たった今まで、草原の上をよろめきながら飛んでいる野の蜜蜂が止まったら、羽を焦してしまっただろうと思われる程、赤く燃えていた女房の顳が、大理石のように・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ふたりは、町を距たった、林の下にあった寺の墓地へまいりました。墓地は雪に埋まっていましたけれど、勇ちゃんは、木に見覚えがあったので、この下にお姉さんが眠っていると教えたのでした。「先生、私はお約束を守っておあいしにまいりました。それだの・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・可哀そうに、わたくしのたった一人の孫は、こんな酷たらしい姿になってしまいました。ああ、可哀そうに。可哀そうに。」 爺さんはこう言って、わあわあ泣きながら、子供の首を抱きしめました。 そうしてる内に、手が両方ばらばらになって落ちて来ま・・・ 小山内薫 「梨の実」
出典:青空文庫