・・・といって魚を獲って活計を立てる漁師とは異う。客に魚を与えることを多くするより、客に網漁に出たという興味を与えるのが主です。ですから網打だの釣船頭だのというものは、洒落が分らないような者じゃそれになっていない。遊客も芸者の顔を見れば三弦を弾き・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・「全部です」と、大将に答えた。「よオし、初めるぞ。さあ皆んな見てろ、どんなことになるか!」 親分は浴衣の裾をまくり上げると源吉を蹴った。「立て!」 逃亡者はヨロヨロに立ち上った。「立てるか、ウム?」そう言って、いきなり横・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・そりゃ、お前さま、ここの家を建てるだけでも、どのくらいよく働いたかしれずか。」 炉ばたでの話は尽きなかった。 三日目には私は嫂のために旧いなじみの人を四方木屋の二階に集めて、森さんのお母さんやお菊婆さんの手料理で、みんなと一緒に久し・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ されば現下の私は一定の人生観論を立てるに堪えない。今はむしろ疑惑不定のありのままを懺悔するに適している。そこまでが真実であって、その先は造り物になる恐れがある。而してこの私を標準にして世間を見渡すと、世間の人生観を論ずる人々も、皆私と・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・と機を織っていた女が甲走った声を立てる。藁の男が入口に立ち塞って、自分を見て笑いながら、じりじりとあとしざりをして、背中の藁を中へ押しこめているのである。「暗いわいの」と女がいうと、「ふふふ」と男は笑っている。打とけた仲かもしれない・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・KLEIST チリー王国の首府サンチャゴに、千六百四十七年の大地震将に起らんとするおり、囹圄の柱に倚りて立てる一少年あり。名をゼロニモ・ルジエラと云いて、西班牙の産なるが、今や此世に望を絶ちて自ら縊れなんとす。 いかがです。この裂帛・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・大きい大きい沼を掻乾して、その沼の底に、畑を作り家を建てると、それが盆地だ。もっとも甲府盆地くらいの大きい盆地を創るには、周囲五、六十里もあるひろい湖水を掻乾しなければならぬ。 沼の底、なぞというと、甲府もなんだか陰気なまちのように思わ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
先日、竹村書房は、今官一君の第一創作集「海鴎の章」を出版した。装幀瀟洒な美本である。今君は、私と同様に、津軽の産である。二人逢うと、葛西善蔵氏の碑を、郷里に建てる事に就いて、内談する。もう十年経って、お互い善蔵氏の半分も偉・・・ 太宰治 「パウロの混乱」
・・・ここへ茶店を建てるときにも、ずいぶん烈しい競争があったと聞いている。東京からの遊覧の客も、必ずここで一休みする。バスから降りて、まず崖の上から立小便して、それから、ああいいながめだ、と讃嘆の声を放つのである。 遊覧客たちの、そんな嘆声に・・・ 太宰治 「富士に就いて」
・・・ 何も人間が通るのに、評判を立てるほどのこともないのだが、淋しい田舎で人珍しいのと、それにこの男の姿がいかにも特色があって、そして鶩の歩くような変てこな形をするので、なんともいえぬ不調和――その不調和が路傍の人々の閑な眼を惹くもととなっ・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫