・・・ 問 予は予の机の抽斗に予の秘蔵せる一束の手紙を――しかれどもこは幸いにも多忙なる諸君の関するところにあらず。今やわが心霊界はおもむろに薄暮に沈まんとす。予は諸君と訣別すべし。さらば。諸君。さらば。わが善良なる諸君。 ホップ夫人は最・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・B そうすると歌の前途はなかなか多望なことになるなあ。A 人は歌の形は小さくて不便だというが、おれは小さいから却って便利だと思っている。そうじゃないか。人は誰でも、その時が過ぎてしまえば間もなく忘れるような、乃至は長く忘れずにいるに・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・最も多望であった脚本創作のことなどは、ほとんど全く手がつかなかったと言ってもいい。 学校の方は一同僚の取りなしでうまく納まったという報告に接したが、質物の取り返しにはここしばらく原稿を大車輪になって働かなければならない。 僕は自分の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 尤も沼南は極めて多忙で、地方の有志者などが頻繁に出入していたから、我々閑人にユックリ坐り込まれるのは迷惑だったに違いない。かつ天下国家の大問題で充満する頭の中には我々閑人のノンキな空談を容れる余地はなかったろうが、応酬に巧みな政客の常・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・実に多望と謂つべしであります。 しかし植林の効果は単に木材の収穫に止まりません。第一にその善き感化を蒙りたるものはユトランドの気候でありました。樹木のなき土地は熱しやすくして冷めやすくあります。ゆえにダルガスの植林以前においてはユトラン・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ところが、党員が出て来ていうのには、「野坂氏は多忙で誰とも会いません。用件は私が伺いましょう」 用件はなかった。すごすご帰る道、仙台に板垣退助の娘がいることを耳にした。板垣退助こそ民主主義である。彼は仙台へ行った。宿につき女中にきく・・・ 織田作之助 「民主主義」
・・・それに局に出て多忙い間だけでも苦労を忘れますよ」とお富は真面目にすすめた。お秀は嘆息ついて、そして淋びしそうな笑を顔に浮かべ、「ほんに左様ですよ、人様のお話の取次をして何番々々と言って居るうちに日が立ちますからねエ」と言って「おほほほほ・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・警察・裁判所・監獄は、多忙をきわめている。今日の社会においては、もし疾病なく、傷害なく、真に自然の死をとげうる人があるとすれば、それは、希代の偶然・僥倖といわねばならぬ。 実際、いかに絶大の権力を有し、百万の富を擁して、その衣食住はほと・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・日の社会、東洋第一の花の都には、地上にも空中にも恐るべき病菌が充満して居る、汽車・電車は、毎日のように衝突したり人を轢いたりして居る、米と株券と商品の相場は、刻々に乱高下して居る、警察・裁判所・監獄は多忙を極めて居る、今日の社会に於ては、若・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・趣味の古代論者、多忙の生活人に叱咤せらる。そもそも南方の強か、北方の強か。」 酒の酔いと、それから落胆のために、足もとがあぶなっかしく見えた。見世物の大将を送って部屋から出られて、たちまち、ガラガラドシンの大音響、見事に階段を踏みはずし・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
出典:青空文庫