・・・「たんと慎ちゃんばかり御可愛がりなさいよ。」 父は多少持て余しながらも、まだ薄笑いを止めなかった。「着物と帽子とが一つになるものかな。」「じゃお母さんはどうしたんです? お母さんだってこの間は、羽織を一つ拵えたじゃありません・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・さましておいて、たんとおあがんなはいだと。さあそうきくから悪いわな。自体、お前と云うものがあるのに、外へ女をこしらえてすむ訳のものじゃあねえ。そもそもの馴初めがさ。歌沢の浚いで己が「わがもの」を語った。あの時お前が……」「房的だぜ。」・・・ 芥川竜之介 「老年」
A兄 近来出遇わなかったひどい寒さもやわらぎはじめたので、兄の蟄伏期も長いことなく終わるだろう。しかし今年の冬はたんと健康を痛めないで結構だった。兄のような健康には、春の来るのがどのくらい祝福であるかをお察しする。・・・ 有島武郎 「片信」
・・・一度ひっそり跫音を消すや否や、けたたましい音を、すたんと立てて、土間の板をはたはたと鳴らして駈け出した。 境はきょとんとして、「何だい、あれは……」 やがて膳を持って顕われたのが……お米でない、年増のに替わっていた。「やあ、・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・「お茶もたんと頂いたよ。」 と小宮山は傍を向いて、飲さしの茶を床几の外へざぶり明けて身支度に及びまする。 三 小宮山は亭主の前で、女の話を冷然として刎ね附けましたが、密に思う処がないのではありませぬ。一体・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 友人はその跡を見送って、「あいつの云う通り、僕は厭世気違いやも知れんけど、僕のは女房の器量がようて、子供がかしこうて、金がたんとあって、寝ておられさえすれば直る気違いや。弾丸の雨にさらされとる気違いは、たとえ一時の状態とは云うても・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 町へゆきゃ、おもしろいことがたんとあるぞ。独りでいって見てこい。おらあ、ここに待っている。帰ったら、見てきたことをみんな聞かしてくれ。」と、父親はいいました。 子供は、黙っていました。 このとき、頭の上のひのきの木に風が当たって、・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・だが、もうそんなことを言ってもらって嬉しがるような年でもないから大丈夫自惚れやしないからたんとお言い」とお光はちっとも動ぜず、洗い髪のハラハラ零れるのを掻き揚げながら、「お上さんと言や、金さん、今日私の来たのはね」「来たのは?」「ほ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・見世物には猿芝居、山雀の曲芸、ろくろ首、山男、地獄極楽のからくりなどという、もうこの頃ではたんと見られないものが軒を列べて出ていました。 私は乳母に手を引かれて、あっちこっちと見て歩く内に、ふと社の裏手の明き地に大勢人が集まっているのを・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・風采の上がらぬ人といってもいろいろあるけれど、本当にどこから見ても風采が上がらぬ人ってそうたんとあるものではない、それをその人ばかりは、誰が見たって、この私の欲眼で見たって、――いや、止そう。私だってちょっとも綺麗じゃない。歯列を矯正したら・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
出典:青空文庫