・・・生きている限りは、ひとに御馳走をし、伊達な着物を着ていたいのである。生家には五十円と現金がない。それも知っている。けれども私は生家の土蔵の奥隅になお二三十個のたからもののあることをも知っている。私はそれを盗むのである。私は既に三度、盗みを繰・・・ 太宰治 「玩具」
・・・ アグリパイナには乳房が無い、と宮廷に集う伊達男たちが囁き合った。美女ではなかった。けれどもその高慢にして悧※、たとえば五月の青葉の如く、花無き清純のそそたる姿態は、当時のみやび男の一、二のものに、かえって狂おしい迄の魅力を与えた。・・・ 太宰治 「古典風」
序唱 神の焔の苛烈を知れ 苦悩たかきが故に尊からず。これでもか、これでもか、生垣へだてたる立葵の二株、おたがい、高い、高い、ときそって伸びて、伸びて、ひょろひょろ、いじけた花の二、三輪、あかき色の華美を誇り・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・の予告を賜って、けれども、かなしいかな、その予告の真意を解くことができず、どろぼう襲来の直前まで、つい、うっかり、警戒を怠っていたということに就いては、寛大の読者は、これを哀れとこそ思え、決してとがめだてをせぬだろうと信じる。繰りかえして言・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・私の最初間借していた家が大学のじき近くにあったので、汐田は入学当時こそほんの二三回そこへ寄って呉れたが、環境も思想も音を立てつつ離叛して行っている二人には、以前のようなわけへだて無い友情はとても望めなかったのだ。私のひがみからかも知れないが・・・ 太宰治 「列車」
・・・腹を立てて、色々な物を従卒に打ち附けてこわした。ドリスを棄てようか。それは「絶待」に不可能である。少し用心深く言ったところで、「当分」不可能である。罷職になって、スラヴ領へ行って、厚皮の長靴を穿く。飛んでもない事だ。世界を一周する。知識欲が・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区画を立てておりながら、しかもそれがすれすれにすりよった。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。 褐色の道路・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・かなたの森の角、こなたの丘の上にでき上がって、某少将の邸宅、某会社重役の邸宅などの大きな構えが、武蔵野のなごりの櫟の大並木の間からちらちらと画のように見えるころであったが、その櫟の並木のかなたに、貸家建ての家屋が五、六軒並んであるというから・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・そこで幾ら立て替えておいてくれたのかい。」「六百マルクでございます。秘密警察署の方は官吏でございますから、報酬は取りませんが、私立探偵事務所の方がございますので。どうぞ悪しからず。それから潜水夫がお心付けを戴きたいと申しました。」 ・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・そしてそれを切り刻んで新しく組立てた「時空の世界像」をそこに安置した。それで重力の秘密は自明的に解釈されると同時に古い力学の暗礁であった水星運動の不思議は無理なしに説明され、光と重力の関係に対する驚くべき予言は的中した。もう一つの予言はどう・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫