・・・夫は破れたズボンの下に毛だらけの馬の脚を露している。薄明りの中にも毛色の見える栗毛の馬の脚を露している。「あなた!」 常子はこの馬の脚に名状の出来ぬ嫌悪を感じた。しかし今を逸したが最後、二度と夫に会われぬことを感じた。夫はやはり悲し・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・しかし幽霊が出るって言ったのは磯っ臭い山のかげの卵塔場でしたし、おまけにそのまたながらみ取りの死骸は蝦だらけになって上ったもんですから、誰でも始めのうちは真に受けなかったにしろ、気味悪がっていたことだけは確かなんです。そのうちに海軍の兵曹上・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・集会所に来た時は二人とも傷だらけになっていた。有頂天になった女は一塊の火の肉となってぶるぶる震えながら床の上にぶっ倒れていた。彼れは闇の中に突っ立ちながら焼くような昂奮のためによろめいた。 春の天気の順当であったの・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ ちょうど吹倒れた雨戸を一枚、拾って立掛けたような破れた木戸が、裂めだらけに閉してある。そこを覗いているのだが、枝ごし葉ごしの月が、ぼうとなどった白紙で、木戸の肩に、「貸本」と、かなで染めた、それがほのかに読まれる――紙が樹の隈を分けた・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 手拭を頭に巻きつけ筒袖姿の、顔はしわだらけに手もやせ細ってる姉は、無い力を出して、ざくりざくり桑を大切りに切ってる。薄暗い心持ちがないではない。お光さんは予には従姉に当たる人の娘である。 翌日は姉夫婦と予らと五人つれ立って父の墓参・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・煤だらけな顔をした耄碌頭巾の好い若い衆が気が抜けたように茫然立っていた。刺子姿の消火夫が忙がしそうに雑沓を縫って往ったり来たりしていた。 泥塗れのビショ濡れになってる夜具包や、古行李や古葛籠、焼焦だらけの畳の狼籍しているをくものもあった・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・容易なだらけ切った気持ちで有るが儘の世相の外貌を描いただけで、尚お且つ現実に徹した積りでいるなど、真に飽きれ果てた話だ。こんなものが何んで現実主義といえよう。 前述の如く、純芸術的の作品が民衆に感動を与えるのは何の為めかというに、それは・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・ 男は顔じゅう皺だらけに笑った。 私はその邪気のなさそうな顔を見て、なるほど毒なぞはいっているまいと思った。 そして、眼を閉じて、ぷんと異様な臭いのする盃を唇へもって行き、一息にぐっと流し込んだ。急にふらふらっと眩暈がした咄嗟に・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・この間仕立てろとおっしゃって、そのままにして家へ置いて来た父様のお羽織なんぞは、わざと裁ち損って疵だらけにして上げるからいいわ。それからその前お茶の手前が上がったとおっしゃって、下すったあの仁清の香合なんぞは、石へ打つけて破してしまうからい・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と、穴だらけの外套を頭からかぶって外へ出た。もう晴りぎわの小降りである。ともかくも路地をたどって通りへ出た。亭主は雨がやんでから行きなと言ったが、どこへ行く? 文公は路地口の軒下に身を寄せて往来の上下を見た。幌人車が威勢よく駆けている。店々・・・ 国木田独歩 「窮死」
出典:青空文庫