・・・途中で知人に挨拶されても、少しも知らずにいる私は、時々自分の家のすぐ近所で迷児になり、人に道をきいて笑われたりする。かつて私は、長く住んでいた家の廻りを、塀に添うて何十回もぐるぐると廻り歩いたことがあった。方向観念の錯誤から、すぐ目の前にあ・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・実に取処もなき愚論にして、痴人夢を語るとは此事ならん。抑も陰陽とは何物なるや何事なるや。漢学流の言に従えば、南が陽なれば北を陰と言い、冬が陰なれば春を陽と言い、天は陽、地は陰、日は陽、月は陰など言うが如く、往古蒙昧の世に無智無学の蛮民等が、・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・どっさりの異性の知人というものが、あるいは同僚があるような公共的な生活が先ずあって、そういう土台からもっと私的なこまかい条件の加わって来る友情も生れる空気が求められるべきだと思う。異性の友情という、どことなし従来の婦人雑誌のトピック向きな空・・・ 宮本百合子 「異性の友情」
・・・そして其の極は詰り人間の生活の極だとでも申しましょうか、哲人の価値は神の光栄でございます。痴人は人類の悲歎でございます。其故、私は真に徹した生活をして居る者の価値は、日常生活の風習の差異等を眼中に置かない共鳴を持つと信じて居ります。然し、私・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・美しいものをしんから愛するものは、或る場合痴人のように寛大だ。然し或る時は、狂人のように潔癖だ。そして変な物を並べる商人を何かの形で思い知らせる。 のどかな漫歩者の上にも、午後の日は段々傾いて来る。 明るく西日のさす横通りで、壁・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・描けないものとしてわきまえる常識とその常識の故に間崎のエロティシズムも、「痴人の愛」の芸術的陶酔として白光灼々とまでは燃焼しきらないものとなっていることもわかる。 この一篇の長篇の終りは、遁走の曲で結ばれている。さまざまに向きをかえ周囲・・・ 宮本百合子 「文学と地方性」
・・・後に深野屋へ聞えた所に依ると、亀蔵は正月二十四日に、熊野仁郷村にいるははかたの小父林助の家に来て、置いてくれと頼んだが、林助は貧乏していて、人を置くことが出来ぬと云って、勧めて父定右衛門が許へ遣った。知人にたよろうとし、それがかなわぬ段にな・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・近比伊庭孝君は同書の中の痴人と死との誤訳を指摘してくれられた。それ等も改版の折に訂正したく思っている。十三 私は誤訳をしたのを、苦心が足りなかったのだと云った。そんなら私がもっと物に念を入れる性質で、もっと時間に余裕のある境・・・ 森鴎外 「不苦心談」
・・・ それも新緑の噴き出て来た晩春のある日のことだ。「色紙を一枚あなたに書いてほしいという青年がいるんですが、よろしければ、一つ――」 知人の高田が梶の所へ来て、よく云われるそんな注文を梶に出した。別に稀な出来事ではなかったが、この・・・ 横光利一 「微笑」
・・・その茸の国で知人に逢う喜びに胸をときめかせつつ、彼は次から次へと急いで行く。ある国では寂として人影がない。他の国ではにぎやかに落ち葉の陰からほほえみ掛ける者がある。そのたびごとに子供は強い寂しさや喜びを感じつつ、松林の外の世界を全然忘れてい・・・ 和辻哲郎 「茸狩り」
出典:青空文庫