・・・影が痣になって、巴が一つ片頬に映るように陰気に沁み込む、と思うと、ばちゃり……内端に湯が動いた。何の隙間からか、ぷんと梅の香を、ぬくもりで溶かしたような白粉の香がする。「婦人だ」 何しろ、この明りでは、男客にしろ、一所に入ると、暗く・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・そんな事で、却て岡村はどうしたろうとも思わないでいる所へ、蚊帳の釣手の鐶をちゃりちゃり音をさせ、岡村は細君を先きにして夜の物を運んで来た。予は身を起して之を戸口に迎え、「夜更にとんだ御厄介ですなア。君一向蚊は居らん様じゃないか。東京から・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・大将は太い剣をかちゃりと鞘に収めた。 その頃でも恋はあった。自分は死ぬ前に一目思う女に逢いたいと云った。大将は夜が開けて鶏が鳴くまでなら待つと云った。鶏が鳴くまでに女をここへ呼ばなければならない。鶏が鳴いても女が来なければ、自分は逢わず・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ そして、下げた頭をそのまま後じさりに扉をしめ、がちゃりと把手を元に戻して立ち去った。 部屋は再び静になった。 彼は始めてのうのうとした心持になった。「ああああ、さてこれで当分、怒っていいのか笑っていいのか、顔を見る毎に苛々する・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・この内気そうなぽっちゃりした娘さんと敵の襲撃とはどのような関係にあるのだろう。…… 黙っていろいろ考えていると、今度は娘さんの方から口を利いた。「……警視庁からはいつも何時頃来ますの?」 自分は、それは全然むこうの風次第だと答え・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 段々監督が箍をゆるめ、馬鹿らしいちゃりを入れ出したので、終りまで見る気がなくなったが、私はそこまで可なり愉快であった。けれども、前後に犇とつめかけている他の見物は、そういう可笑しみは全然感じないらしかった。元になっている蜂雀も知らない・・・ 宮本百合子 「茶色っぽい町」
・・・白いものがちらりと見えたり、かちゃりと鎖の音がしでもすると、私は矢を禦ぐ楯のようにいそいで傘を右に低く傾ける。登って行く時なら反対の方へ――左へ傾ける。それで眼で見ることだけは免れるようなものだが、私は楽でない。彼処にあれが、ああやって生存・・・ 宮本百合子 「吠える」
出典:青空文庫