・・・新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭や道頓堀のたこ梅をはじめ、行き当りばったりに関東煮屋の暖簾をくぐって、味加減や銚子の中身の工合、商売のやり口などを調べた。関東煮屋をやると聴いて種吉は、「海老でも烏賊でも天婦羅ならわいに任しとくなはれ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・銃劒が心臓の真中心を貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きな孔、孔の周囲のこの血。これは誰の業? 皆こういうおれの仕業だ。 ああ此様な筈ではなかったものを。戦争に出たは別段悪意があったではないものを。出れば成程人殺もしようけれど、如何・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・私の眼の下ではこの半島の中心の山彙からわけ出て来た二つの溪が落合っていた。二つの溪の間へ楔子のように立っている山と、前方を屏風のように塞いでいる山との間には、一つの溪をその上流へかけて十二単衣のような山褶が交互に重なっていた。そしてその涯に・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・ そこで彼は失敗やら成功やら、二十年の間に東京を中心としておもに東北地方を舞台に色んな事をやって見たが、ついに失敗に終わったと言うよりもむしろ、もはや精根の泉を涸らしてしまった。 そして故郷へ帰って来た。漂って来たのではない、実に帰・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・今度はマッチを出したが箱が半ばこわれて中身はわずかに五六本しかない。あいにくに二本すりそこなって三本目でやっと火がついた。 スパリスパリといかにもうまそうである。青い煙、白い煙、目の先に透明に光って、渦を巻いて消えゆく。「オヤ、あれ・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・世の巷に駆けめぐる人は目のみを鋭く働かしめて耳を用いざるものなり。衷心騒がしき時いかで外界の物音を聞き得ん。 青年の心には深き悲しみありて霧のごとくかかれり、そは静かにして重き冷霧なり。かれは木の葉一つ落ちし音にも耳傾け、林を隔てて遠く・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・それが夫婦生活を固定させた大きな条件なのだから、したがって、夫婦愛は子どもを中心として築かれ、まじめな課題を与えられる。恋愛の陶酔から入って、それからさめて、甘い世界から、親としてのまじめな養育、教育のつとめに移って行く。スイートホームとい・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・青年に、永遠の真理の把握と人間完成とを志向せしめようと祈願するとき、彼らがいずれはその理性知を揚棄せねばならぬことを注意せざるを得ず、またその読者の選択を合理的知性に対応する方向のみに向けしむることは衷心からの不安を感じる。 彼らに祖国・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・こんなとき、いつも雑談の中心となるのは、鋳物工で、鉄瓶造りをやっていた、鼻のひくい、剛胆な大西だった。大西は、郷里のおふくろと、姉が、家主に追立てを喰っている話をくりかえした。「俺れが満洲へ来とったって、俺れの一家を助けるどころか家賃を・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・女だって、わたしあ、あなたの忠臣じゃありませんか。」 忠臣という言葉は少し奇異に用いられたが、この人にしてはごもっともであった。実際この主人の忠臣であるに疑いない。しかし主人の耳にも浄瑠璃なんどに出る忠臣という語に連関して聞えたか、・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫