・・・……「……姐さん、ここの前を右へ出て、大な絵はがき屋だの、小料理屋だの、賑な処を通り抜けると、旧街道のようで、町家の揃った処がある。あれはどこへ行く道だね。」「それはね、旦那さん、那谷から片山津の方へ行く道だよ。」「そうか――そ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・今更に民子の横顔を見た。「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝家を出る時はほんとに極りが悪くて……嫂さんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、私はのぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」「・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・昔は大抵な家では自宅へ職人を呼んで餅を搗かしたもんで、就中、下町の町家では暮の餅搗を吉例としたから淡島屋の団扇はなければならぬものとなって、毎年の年の市には景物目的のお客が繁昌し、魚河岸あたりの若い衆は五本も六本も団扇を貰って行ったそうであ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ おじいさんは、朝家を出たときの仕度と同じようすをして、しかも背中に、赤い大きなかにを背負っていられました。「おじいさん、そのかにどうしたの?」と、太郎は、喜んで、しきりに返事をせきたてました。「まあ、静かにしているのだ。」と、・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・一つ欠席日数超過、二つ教師の反感を買っていること、三つ心身共に堕落していること、例えば髪の毛が長すぎる云々。 私は希望通り現級に止まったが、私より一足さきに卒業した友人がノートを残して行ってくれたので、私は毎年同じ講義のノートをもう一つ・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ それを受け取って、毛布や長靴を売って、雪子の著物を買い、宿に帰って米を炊いてもらおうと正直に考えていたのだ。 外で食事が出来るとは、考えも及ばなかったのだ。 だから、預けた荷物がいつの間にか無くなっていたと判ると、小沢は何より・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・然し大庭真蔵は慣れたもので、長靴を穿いて厚い外套を着て平気で通勤していたが、最初の日曜日は空青々と晴れ、日が煌々と輝やいて、そよ吹く風もなく、小春日和が又立返ったようなので、真蔵とお清は留守居番、老母と細君は礼ちゃんとお徳を連て下町に買物に・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・紺の筒袖を着て白もめんの兵児帯をしめている様子は百姓の子でも町家の者でもなさそうでした。 手に太い棒切れを持ってあたりをきょろきょろ見回していましたが、フト石垣の上を見上げた時、思わず二人は顔を見合わしました。子供はじっと私の顔を見つめ・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・灰色の外套長く膝をおおい露を避くる長靴は膝に及び頭にはめりけん帽の縁広きを戴きぬ、顔の色今日はわけて蒼白く目は異しく光りて昨夜の眠り足らぬがごとし。 門を出ずる時、牛乳屋の童にあいぬ。かれは童の手より罎を受け取りて立ちながら飲み、半ば残・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・その顔は緊張して横柄で、大きな長靴は、足のさきにある何物をも踏みにじって行く権利があるものゝようだった。彼は、――彼とは栗島という男のことだ――、特色のない、一兵卒だった。偽せ札を作り出せるような気の利いた、男ではなかった。自分でも偽せ札を・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫