・・・ ちょうどこの時分、父の訃に接して田舎に帰ったが、家計が困難で米塩の料は尽きる。ためにしばしば自殺の意を生じて、果ては家に近き百間堀という池に身を投げようとさえ決心したことがあった。しかもかくのごときはただこれ困窮の余に出でたことで、他・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・とぼけていて、ちょっと愛嬌のあるものです。ほんの一番だけ、あつきあい下さいませんか。」 こう、つれに誘われて、それからの話である。「蛸とくあのくたら。」しかり、これだけに対しても、三百三もんがほどの価値をお認めになって、口惜い事はあるま・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・すっかり潮のように引いたあとで、今日はまた不思議にお客が少く、此室に貴方と、離室の茶室をお好みで、御隠居様御夫婦のお泊りがあるばかり、よい処で、よい折から――と言った癖に……客が膳の上の猪口をちょっと控えて、それはお前さんたちさぞ疲れたろう・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・いや、端から貴女がなさると思った次第でもありません。ちょっと今時珍しかったものですから。――近頃は東京では、場末の縁日にも余り見掛けなくなりました。……これは静でしょうな。裏を返すと弁慶が大長刀を持って威張っている。……その弁慶が、もう一つ・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 正ちゃんは、裏から来たので、裏から帰って行ったが、それと一緒に何か話しをしながら、家にはいって行く吉弥の素顔をちょっとのぞいて見て、あまり色が黒いので、僕はいや気がした。 二 僕はその夕がた、あたまの労れを癒し・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
正ちゃんは、左ぎっちょで、はしを持つにも左手です。まりを投げるのにも、右手でなくて左手です。「正ちゃんは、左ピッチャーだね。」と、みんなにいわれました。 けれど、学校のお習字は、どうしても右手でなくてはいけませんので、お習字の・・・ 小川未明 「左ぎっちょの正ちゃん」
・・・「なあに、人はドッとしなくっても、俺はちょいとこう、目の縁を赤くして端唄でも転がすようなのが好きだ」「おや、御馳走様! どこかのお惚気なんだね」「そうおい、逸らかしちゃいけねえ。俺は真剣事でお光さんに言ってるんだぜ」「私に言・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 骨にも動脈にも触れちょらん。如何して此三昼夜ばッか活ちょったか? 何を食うちょったか?」「何も食いません。」「水は飲まんじゃったか?」「敵の吸筒を……看護長殿、今は談話が出来ません。も少し後で……」「そうじゃろうそうじゃろ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・青森というのは耕吉の郷国だったので、彼もちょっと心ひかれて、どうした事情かと訊いてみる気になった。 小僧は前借で行っていた埼玉在の紡績会社を逃げだしてきたのだ。小僧は、「あまり労働が辛いから……」という言葉に力を入れて繰返した。そして途・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・「ちょッとお話の途中ですが、貴様はその『冬』という音にかぶれやアしませんでしたか?」と岡本は訊ねた。 上村は驚ろいた顔色をして「貴様はどうしてそれを御存知です、これは面白い! さすが貴様は馬鈴薯党だ! 冬と聞いては全く堪りません・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
出典:青空文庫