・・・そのあたりの地理は詳細には分らなかった。 だが、そこの鉄橋は始終破壊された。枕木はいつの間にか引きぬかれていた。不意に軍用列車が襲撃された。 電線は切断されづめだった。 HとSとの連絡は始終断たれていた。 そこにパルチザンの・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・彼は、三人のあとから、山の根の運び出した薪を散り/\に放り出してある畠のところまでついて来た。 三人は仕様がなかった。そこで薪積みを始めた。スパイは、煙草屋でせしめてきた「朝日」を吸って、なか/\去ろうとしない。 薪は百姓に取って、・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・そして、対岸の河岸が、三十メートル突きだして、ゆるく曲線を描いている関係から、舟は、流れの中へ放りだせば、ひとりでに流れに押されて、こちらの河岸へ吸いつけられるようにやってくる。地理的関係がめぐまれていた。支那人は、警戒兵が寝静まったころを・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・そして脚を抜く時に蹴る雪が、イワンの顔に散りかかって来た。そういう走りにくいところへ落ちこめば落ちこむほど、馬の疲労は増大してきた。 橇が、兵士の群がっている方へ近づき、もうあと一町ばかりになった時、急に兵卒が立って、ばらばらに前進しだ・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・竿は二本継の、普通の上物でしたが、継手の元際がミチリと小さな音がして、そして糸は敢えなく断れてしまいました。魚が来てカカリへ啣え込んだのか、大芥が持って行ったのか、もとより見ぬ物の正体は分りませんが、吉はまた一つ此処で黒星がついて、しかも竿・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・さてまたひそかにおもうに、武光のとなえも甚だ故なきに似て、地理の書などにもその説を欠けり。けだし疑うらくはここらを領せし人の名などより、たけ光の庄、たけ光の山などとの称の起りたるならんか。いと古くより秩父の郡に拠りて栄えたる丹の党には、その・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・男はこれに構わず、膳の上に散りし削たる鰹節を鍋の中に摘み込んで猪口を手にす。注ぐ、呑む。「いいかエ。「素敵だッ、やんねえ。 女も手酌で、きゅうと遣って、その後徳利を膳に置く。男は愉快気に重ねて、「ああ、いい酒だ、サルチルサン・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・それから財布のなかを調べて懐に入れ、チリ紙とタオルを枕もとに置いた。そういう動作をしているお前の妹の顔は、お前が笑うような形容詞を使うことになるが、紙のように蒼白だった。しかし、それは本当にしっかりした、もの確かな動作だったよ。特高が入って・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・ 女は安来節のようなのを小声で歌いながら、チリ紙を持って入ってきた。そしてそこにあった座布団を二つに折ると×××× 龍介はきゅうに心臓がドキンドキンと打つのを感じた。「ばか、俺は何もするつもりじゃないんだ」彼は少しどもった。女は初め・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・その日のおげんは台所のしちりんの前に立ちながら、自分の料理の経験などをおさだに語り聞かせるほど好い機嫌でもあった。うまく煮て弟達をも悦ばせようと思うおげんと、倹約一方のおさだとでは、炭のつぎ方でも合わなかった。 おげんはやや昂奮を感じた・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫