・・・その無邪気も、光明も希望も、快活も、やがて奪い去られてしまって、疲れた人として、街頭に突き出される日の、そう遠い未来でないことを感ずることから、涙ぐむのであった。 人間性を信じ、人間に対して絶望をしない私達もいかんともし難い桎梏の前に、・・・ 小川未明 「人間否定か社会肯定か」
・・・ そのうちに、彼女の歩いている路は、いつしか尽きてしまって、目の前に青い青い池が見えました。日はまったく暮れて、空の星がちらちらとその静かな水の上に映っていました。 娘は、目がよく見えませんけれど、この深そうに青黒く見える、池の面に・・・ 小川未明 「めくら星」
・・・お仙ちゃんが片づけば、どうしたってあの阿母さんは引き取るか貢ぐかしなけりゃならないのだが、まあ大抵の男は、そんな厄介附きは厭がるからね」「そうさ、俺にしても恐れらあ。だが、金さんの身になりゃ年寄りでも附けとかなきゃ心配だろうよ、何しろ自・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ その眼付きを見ると、嫉妬深い男だと言った女の言葉が、改めて思いだされて、いまさきまで女と向い合っていたということが急に強く頭に来た。「しかし、まあ、いずれ……」 曖昧に断りながら、ばつのわるい顔をもて余して、ふと女の顔を見ると・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 男は眼鏡を突きあげながら、言った。そして、売店で買物をしていた女の方に向って、「糸枝!」 と、名をよんだ。「はい」 女が来ると、「もう直き、汽車が来るよって、いまのうち挨拶させて貰い」「はい」 女はいきなり・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・坂田の棋士としての運命もこの時尽きてしまったかと思われた。私は坂田の胸中を想って暗然とした。同時に私はひそかにわが師とすがった坂田の自信がこんなに脆いものであったかと、だまされた想いにうろたえた。まるでもぬけの殻を掴まされたような気がし、私・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・石コロもあれば、搗き立ての餅もあります」日頃の主人に似合わぬ冗談口だった。 その時、トンビを着て茶色のソフトを被った眼の縁の黝い四十前後の男が、キョロキョロとはいって来ると、のそっと私の傍へ寄り、「旦那、面白い遊びは如何です。なかな・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 何の報いで咽喉の焦付きそうなこの渇き? 渇く! 渇くとは如何なものか、御存じですかい? ルーマニヤを通る時は、百何十度という恐ろしい熱天に毎日十里宛行軍したッけが、其時でさえ斯うはなかった。ああ誰ぞ来て呉れれば好いがな。 しめた! こ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・そして彼は三百の云うなりになって、八月十日限りといういろ/\な条件附きの証書をも書かされたのであった。そして無理算段をしては、細君を遠い郷里の実家へ金策に発たしてやったのであった。……「なんだってあの人はあゝ怒ったの?」「やっぱし僕・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ いつまでも尽きないおやじの話で、私たちは遅くまで酒を飲んだ。明日はこの村の登記所へ私たちはちょっとした用事があった。私たちの村はもう一つ先きの駅なのだが、父が村にわずかばかし遺して行ってくれた畑などの名義の書き替えは、やはりここの登記・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
出典:青空文庫