文政四年の師走である。加賀の宰相治修の家来に知行六百石の馬廻り役を勤める細井三右衛門と云う侍は相役衣笠太兵衛の次男数馬と云う若者を打ち果した。それも果し合いをしたのではない。ある夜の戌の上刻頃、数馬は南の馬場の下に、謡の会・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・「お前がこの島に止まっていれば、姫の安否を知らせるのは、誰がほかに勤めるのじゃ? おれは一人でも不自由はせぬ。まして梶王と云う童がいる。――と云ってもまさか妬みなぞはすまいな? あれは便りのないみなし児じゃ。幼い島流しの俊寛じゃ。お前は・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・母はその説教を聞いている内に、私の知らない母の役を勤める気になったのじゃありますまいか。私が寺に拾われている事は、当時説教を聞きに来ていた参詣人からでも教わったのでしょう。あるいは寺の門番が、話して聞かせたかも知れません。」 客はちょい・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・何故かと云うと田中君は、詩も作る、ヴァイオリンも弾く、油絵の具も使う、役者も勤める、歌骨牌も巧い、薩摩琵琶も出来ると云う才人だから、どれが本職でどれが道楽だか、鑑定の出来るものは一人もいない。従ってまた人物も、顔は役者のごとくのっぺりしてい・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・一つは第三階級に踏みとどまって、その生活者たるか、一つは第四階級に投じて融け込もうと勉めるか。衝動の醇化ということが不可能であるをもって、この二つに一つのいずれかを選ぶほかはない。私はブルジョア階級の崩壊を信ずるもので、それが第四階級に融合・・・ 有島武郎 「想片」
・・・……さて時に承わるが太夫、貴女はそれだけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞をせよ、と言わば、すぐに優伎の舞台に出て、小町も静も勤めるのかな。」 紫玉は巌に俯向いた。「それで通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品はどう・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・将軍家大奥の台一式の御用を勤めるお台屋の株を買って立派な旦那衆となっていた。天保の饑饉年にも、普通の平民は余分の米を蓄える事が許されないで箪笥に米を入れて秘したもんだが、淡島屋だけは幕府のお台を作る糊の原料という名目で大びらに米俵を積んで置・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ べつに、頼るところのない若者は、やはり自ら、勤める口を探さなければなりませんでした。 彼は、それからというものは毎日、あてもなく、あちらの町こちらの町とさまよって、職を求めて歩いていました。 空の色のうす紅い、晩方のことであり・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ 時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行っ・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・ 不思議なもので一度、良心の力を失なうと今度は反対に積極的に、不正なこと、思いがけぬ大罪を成るべく為し遂んと務めるものらしい。 自分はそっとこの革包を私宅の横に積である材木の間に、しかも巧に隠匿して、紙幣の一束を懐中して素知らぬ顔を・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
出典:青空文庫