・・・ すると、まだその点検がすまない中に、老紳士はつと立上って、車の動揺に抵抗しながら、大股に本間さんの前へ歩みよった。そうしてそのテエブルの向うへ、無造作に腰を下すと、壮年のような大きな声を出して、「やあ失敬」と声をかけた。 本間さん・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまえていた。ところがそれよりも先にけたたましい日和下駄の音が、改札口の方から聞え出したと思うと、間もなく車掌の何か云い・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・ 今思出でつと言うにはあらねど、世にも慕わしくなつかしきままに、余所にては同じ御堂のまたあらんとも覚えずして、この年月をぞ過したる。されば、音にも聞かずして、摂津、摩耶山の利天王寺に摩耶夫人の御堂ありしを、このたびはじめて知りたるなり。・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 幸に箸箱の下に紙切が見着かった――それに、仮名でほつほつとと書いてあった。 祖母は、その日もおなじほどの炎天を、草鞋穿で、松任という、三里隔った町まで、父が存生の時に工賃の貸がある骨董屋へ、勘定を取りに行ったのであった。 七十・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・何か心に思ってる事がなくて、そんなによそよそしくせんでもよい人に、つとめてよそよそしくするのはおかしいにきまっている。稲を刈って助けるのは、心あっての事ともそうでないとも見られるが、そのそぶりはなんでもないもののする事とは見られない。 ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・さも口惜しそうな顔して、つと僕の側へ寄ってきた。「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……」「何さ、この頃民さんは、すっかり変っちまって、僕なんかに用はないらしいからよ。それだって民さんに不足を云う訣ではないよ」・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 少女はどうかして、あのとこなつと同じい花はどこかに咲いていないかと思って、毎日のように浜辺を探して歩きました。浜辺にはいろいろな青や、白や、紫や、空色の花などがたくさんに咲いていました。けれどあの赤いとこなつと同じい花は見つかりません・・・ 小川未明 「夕焼け物語」
・・・と答えた機で、私はつと下駄を脱捨てて猿階子に取着こうとすると、「ああ穿物は持って上っておくれ。そこへ脱いどいて、失えても家じゃ知らんからね。」 私は言われるままに、土のついた日和下駄を片手に下げながら、グラグラする猿階子を縋るように・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・「何もお光さんで見りゃそんな気があって言ったんじゃあるめえが、俺がいよいよ横浜へ立つという朝、出がけにお前の家へ寄ったら、お前が繰り返し待ってるからと言ってくれた、それを俺はどんなに胸に刻んで出かけたろう! けれど、考えて見りゃ誰だって・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・しかし腹が立つといえば、いわゆる婚約期間中にも随分腹の立つことが多かった。ほんとうにしょっちゅう腹を立てて、自分でもあきれるくらい、自分がみじめに見えたくらい、また、あの人が気の毒になったくらい、けれど、あの人もいけなかった。 婚約して・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
出典:青空文庫