・・・この時もしやと思うこと胸を衝きしに、つと起てば大粒の涙流れて煩をつたうを拭わんとはせず、柱に掛けし舷燈に火を移していそがわしく家を出で、城下の方指して走りぬ。 蟹田なる鍛冶の夜業の火花闇に散る前を行過ぎんとして立ちどまり、日暮のころ紀州・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・と言って、涙がほおをつとうて流れるのをふきもしないで僕の顔を見たまますすり泣きに泣いた。 僕は陸のほうを見ながら黙ってこの話を聞いていた。家々のともし火は水に映ってきらきらとゆらいでいる。櫓の音をゆるやかにきしらせながら大船の伝馬をこい・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
ガラーリ 格子の開く音がした。茶の間に居た細君は、誰かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙からちょっと窺ったが、それがいつも今頃帰るはずの夫だったと解ると、すぐとそのままに出て、「お帰りなさいまし。」と、ぞ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・と独語つところへ、うッそりと来かかる四十ばかりの男、薄汚い衣服、髪垢だらけの頭したるが、裏口から覗きこみながら、異に潰れた声で呼ぶ。「大将、風邪でも引かしッたか。 両手で頬杖しながら匍匐臥にまだ臥たる主人、懶惰にも眼ばかり動かし・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・れとの命令畏まると立つ女と入れかわりて今日は黒出の着服にひとしお器量優りのする小春があなたよくと末半分は消えて行く片靨俊雄はぞッと可愛げ立ちてそれから二度三度と馴染めば馴染むほど小春がなつかしく魂いいつとなく叛旗を翻えしみかえる限りあれも小・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 問を掛けた生徒は、つと教室を離れて、窓の外の桃の樹の側に姿を顕した。「ア、虫を取りに行った」 と窓の方を見る生徒もある。庭に出た青年は桜の枝の蔭を尋ね廻っていたが、間もなく戻って来て、捕えたものを学士に勧めた。「蜂ですか」・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・彼は自分の足に気がついた……堅く飛出した「つとわら」の肉に気がついた……怒ったような青筋に気がついた……彼の二の腕のあたりはまだまだ繊細い、生白いもので、これから漸く肉も着こうというところで有ったが、その身体の割合には、足だけはまるで別の物・・・ 島崎藤村 「足袋」
(はじめに、黄村先生が山椒魚に凝って大損をした話をお知らせしましょう。逸事の多い人ですから、これからも時々、こうして御紹介したいと思います。三つ、四つと紹介をしているうちに、読者にも、黄村先生の人格の全貌 黄村先生が、山・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・息子戦死の報を聞くや、つと立って台所に行き、しゃっしゃっと米をといだという母親のぶざまと共に、この男の悲しみの顛倒した表現をも、苦笑してゆるしてもらいたい。 ずいぶんたくさん書くことを用意していた筈なのに、異様にこわばって、書けなくなっ・・・ 太宰治 「緒方氏を殺した者」
・・・しかし不思議なものでこの粗野な玉の食い物に対する趣味はいつとなしに向上して行って、同時にあのあまりに見苦しいほどに強かった食欲もだんだん尋常になって行った。挙動もいくらかは鷹揚らしいところができてきたが、それでも生まれついた無骨さはそう容易・・・ 寺田寅彦 「子猫」
出典:青空文庫