・・・またそれらの言葉を耳に聞き目に見ることによって、その中に圧縮された内容を一度に呼び出し、出現させる呪文の役目をつとめるものである。そういう意味での「象徴」なのである。 こういう不思議な魔術がなかったとしたら俳句という十七字詩は畢竟ある無・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・と語り出そうとする時、蚊遣火が消えて、暗きに潜めるがつと出でて頸筋にあたりをちくと刺す。「灰が湿っているのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋をとると、赤い絹糸で括りつけた蚊遣灰が燻りながらふらふらと揺れる。東隣で琴と尺八を合せる音が紫・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ 女は幕をひく手をつと放して内に入る。裂目を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立ちて見える。左右に開く廻廊には円柱の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中な・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 善吉はつと立ッて威勢よく廊下へ出た。「まアお待ちなさいよ。何かお忘れ物はございませんか。お紙入れは」 善吉は返事もしない。お熊が枕もとを片づけるうちに、早や廊下を急ぐその足音が聞えた。「まるで夢中だよ。私の言うことなんざ耳・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・三年父母の懐をまぬかれず、ゆえに三年の喪をつとむるなどは、勘定ずくの差引にて、あまり薄情にはあらずや。 世間にて、子の孝ならざるをとがめて、父母の慈ならざるを罪する者、稀なり。人の父母たる者、その子に対して、我が生たる子と唱え、手もて造・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
・・・歌集にあるところをもってこれを推すに、福井辺の人、広く古学を修め、つとに勤王の志を抱く。松平春岳挙げて和歌の師とす、推奨最つとむ。しかれども赤貧洗うがごとく常に陋屋の中に住んで世と容れず。古書堆裏独破几に凭りて古を稽え道を楽む。詠歌のごとき・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・楢夫は余程撲ってやろうと思いましたが、あんまりみんな小さいので、じつと我慢をして居ました。 みんなは縛ってしまうと、互に手をとりあって、きゃっきゃっと笑いました。 大将が、向うで、腹をかかえて笑いながら、剣をかざして、「胴上げい・・・ 宮沢賢治 「さるのこしかけ」
・・・その家康の心を知った佐橋は、「ふんと鼻から息を漏して軽く頷いて」つと座を起って退出したなり逐電したのであった。 岩波文庫本の解説で、斎藤茂吉氏は「甚五郎という人物はやはり鴎外好みの一人と謂って好いであろう」と云っておられるが、鴎外はこの・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・ 二三日立つと、弥一右衛門が耳にけしからん噂が聞え出して来た。誰が言い出したことか知らぬが、「阿部はお許しのないを幸いに生きているとみえる、お許しはのうても追腹は切られぬはずがない、阿部の腹の皮は人とは違うとみえる、瓢箪に油でも塗って切・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・いったい、どこか一つとして危険でないところがあるだろうか。梶はそんなに反対の安全率の面から探してみた。絶えず隙間を狙う兇器の群れや、嫉視中傷の起す焔は何を謀むか知れたものでもない。もし戦争が敗けたとすれば、その日のうちに銃殺されることも必定・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫