・・・』と気のない声で云い捨てながら、またてくてくと歩き出しましたが、今度は鉢の開いた頭を傾けて、何やら考えて行くらしいのでございます。その後姿を見送った鼻蔵人の可笑しさは、大抵御推察が参りましょう。恵印はどうやら赤鼻の奥がむず痒いような心もちが・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・ああ眠くなったと思った時、てくてく寝床を探しに出かけるんだ。昨夜は隣の室で女の泣くのを聞きながら眠ったっけが、今夜は何を聞いて眠るんだろうと思いながら行くんだ。初めての宿屋じゃ此方の誰だかをちっとも知らない。知った者の一人もいない家の、行燈・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ と二人は一所に挨拶をして、上段の間を出て行きまする、親仁は両提の莨入をぶら提げながら、克明に禿頭をちゃんと据えて、てくてくと敷居を越えて、廊下へ出逢頭、わッと云う騒動。「痛え。」とあいたしこをした様子。 さっきから障子の外に、・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ また、笛の穴の中から飛びだして、幻の中に笑ったり跳ねたりした、異様な、帽子を目深にかぶった洋服を着た男も、ほんとうに、砂山の下をてくてくと歩いているのでした。 二郎は目を開けながら、自分は、夢を見ているのではないかと思ったのでした・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
これは狐か狸だろう、矢張、俳優だが、数年以前のこと、今の沢村宗十郎氏の門弟で某という男が、或夏の晩他所からの帰りが大分遅くなったので、折詰を片手にしながら、てくてく馬道の通りを急いでやって来て、さて聖天下の今戸橋のところま・・・ 小山内薫 「今戸狐」
・・・ 二人はそれからしばらく、てくてく歩いていきますと、こんどは向うから、まるで棒のようにやせた、ひょろ長い男が出て来ました。王子は、「おや、へんなやつが来たぞ。」と思いながらそばへいって、「もしもし、おまえさんはどこまでいくのです・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・onfiteor 昨年の暮、いたたまらぬ事が、三つも重なって起り、私は、字義どおり尻に火がついた思いで家を飛び出し、湯河原、箱根をあるきまわり、箱根の山を下るときには、旅費に窮して、小田原までてくてく歩こうと決心したのである。路の両・・・ 太宰治 「碧眼托鉢」
一 山手線の朝の七時二十分の上り汽車が、代々木の電車停留場の崖下を地響きさせて通るころ、千駄谷の田畝をてくてくと歩いていく男がある。この男の通らぬことはいかな日にもないので、雨の日には泥濘の深い田畝道に古い長靴を引きずっていくし・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ただ年が年中足を擂木にして、火事見舞に行くんでも、葬式の供に立つんでも同じ心得で、てくてくやっているのは、本人の勝手だと云えば云うようなものの、あまり器量のない話であります。デフォーははなはだ達筆で生涯に三百何部と云う書物をかきました。まあ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 雲は光って立派な玉髄の置物です。四方の空を繞ります。 すもものかきねのはずれから一人の洋傘直しが荷物をしょって、この月光をちりばめた緑の障壁に沿ってやって来ます。 てくてくあるいてくるその黒い細い脚はたしかに鹿に肖ています。そ・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
出典:青空文庫