・・・と、柄にもない鉄火な事を云って、こちらも負けずに鼻で笑いました。けれども婆は自若として、まるで蝙蝠の翼のように、耳へ当てた片手を動かしながら、「怒らしゃるまいてや。口が悪いはわしが癖じゃての。」と、まだ半ばせせら笑うように、新蔵の言葉を遮り・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・と中腰になって、鉄火箸で炭を開けて、五徳を摺って引傾がった銅の大薬鑵の肌を、毛深い手の甲でむずと撫でる。「一杯沸ったのを注しましょうで、――やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?」「源助、その事だ。」「はい・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ と、その鉄火箸を、今は突刺しそうに逆に取った。 この時、階段の下から跫音が来なかったら、雪次郎は、硝子を破って、血だらけになって飛込んだろう。 さまでの苦痛を堪えたな。――あとでお澄の片頬に、畳の目が鑢のようについた。横顔で突・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・のドテ焼、粕饅頭から、戎橋筋そごう横「しる市」のどじょう汁と皮鯨汁、道頓堀相合橋東詰「出雲屋」のまむし、日本橋「たこ梅」のたこ、法善寺境内「正弁丹吾亭」の関東煮、千日前常盤座横「寿司捨」の鉄火巻と鯛の皮の酢味噌、その向い「だるまや」のかやく・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・熱鉛を水中に滴下すれば、さまざまの奇形を生ずる。しかし一つ一つの形は自然科学には一顧の価もない。しかし精神科学では個性的なものが最も価あるものである。フリードリッヒ大王や、ゲーテの事蹟は斯学の対象として、いつまでも研究をつづけていかれる。・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・汚くのこして死ぬのは、なんとしても、心残りであったから、マントの袖で拭いてまわって、いつしか、私にも、薬がきいて、ぬらぬら濡れている岩の上を踏みぬめらかし踏みすべり、まっくろぐろの四足獣、のどに赤熱の鉄火箸を、五寸も六寸も突き通され、やがて・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・なんでも赤あかさびた鉄火鉢に炭火を入れてあって、それで煙管の脂を掃除する針金を焼いたり、また新しい羅宇竹を挿込む前にその端をこの火鉢の熱灰の中にしばらく埋めて柔らげたりするのであった。柔らげた竹の端を樫の樹の板に明けた円い孔へ挿込んでぐいぐ・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・ブンゼン燈のバリバリと音を立てて吹き付ける焔の輻射をワイシャツの胸に受けながらフラスコの口から滴下する綺麗な宝石のような油滴を眺めているのは少しも暑いものではなかった。 夕方井戸水を汲んで頭を冷やして全身の汗を拭うと藤棚の下に初嵐の起る・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・ 水の中に濃硫酸をいれるのに、極めて徐々に少しずつ滴下していれば酸は徐々に自然に水中に混合して大して間違いは起らないが、いきなり多量に流し込むと非常な熱を発生して罎が破れたり、火傷したりする危険が発生する。 汽車や飛行機や電話や無線・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・ メーデーが近づいた或る日、高等室へ出ると、火の気のない錆びた鉄火鉢の中へうず高く引裂いた本が投げこまれている。 主任が、ズボンの膝をひきしめるようにしながら、「どうです」 目でその引裂いたものを指し示し、「朝日」に火を・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫