・・・窓に張った投身者よけの金網のたった一つの六角の目の中にこの安全地帯が完全に収まっていた。そこに若い婦人が人待つふぜいで立っていると、やがて大学生らしいのが来ていっしょになった。このランデヴーのほほえましい一場面も、この金網のたった一つの目の・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・歴史は繰り返すとすれば今に貴婦人たちやモガたちが等身大のリボン付きのステッキにハンドバッグでもつるしたのを持って銀座を歩くようになるとおもしろい見物であろう。 ついでながら、桿状菌バクテリアの語源がギリシア語のステッキであるのはちょっと・・・ 寺田寅彦 「ステッキ」
・・・その時鼠骨氏が色々面白い話をした中に、ある新聞記者が失敗の挙句吾妻橋から投身しようと思って、欄干から飛んだら、後向きに飛んで橋の上に落ちたという挿話があった。これが『猫』の寒月君の話を導き出したものらしい。高浜さんは覚えておられるかどうか一・・・ 寺田寅彦 「高浜さんと私」
・・・ 一等客でコロンボから乗った英国人がけさ投身したと話していた。妻と三人の子供をなくしてひとりさびしく故国へ帰る道であったそうな。四月二十六日 午後T氏がわざわざ用意して手荷物の中に入れて来た煎茶器を出して洗ったりふいたりした。そ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 中学時代に少しばかり居合い抜きのけいこをさせられたことがある。刀身の抜きさしにも手首の運動が肝要な役目を勤める。また真剣を上段から打ちおろす時にピューッと音がするようでなければならない。それにはもちろん刃がまっすぐになることも必要であ・・・ 寺田寅彦 「「手首」の問題」
・・・ しかし、ともかくも、たとえば、三原山投身者だけについてでも、もしわかるものならその中で俳句をやっていた人が何プロセントあったか調べてみたいような気がする。俳諧の目を通して自然と人生を見ている人が、容易なことでそんな絶望的気持ちになった・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
・・・ 十九 入水者はきっと草履や下駄をきれいに脱ぎそろえてから投身する。噴火口に飛び込むのでもリュックサックをおろしたり靴を脱いだり上着をとったりしてかかるのが多いようである。どうせ死ぬために投身するならどちらでも同・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・ 七味唐辛子を売り歩く男で、頭には高くとがった円錐形の帽子をかぶり、身にはまっかな唐人服をまとい、そうしてほとんど等身大の唐辛子の形をした張り抜きをひもで肩につるして小わきにかかえ、そうして「トーン、トーオン、トンガシノコー、ヒリヒリカ・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・蝋燭の灯の細きより始まって次第に福やかに広がってまた油の尽きた灯心の花と漸次に消えて行く。どこで吠えるか分らぬ。百里の遠きほかから、吹く風に乗せられて微かに響くと思う間に、近づけば軒端を洩れて、枕に塞ぐ耳にも薄る。ウウウウと云う音が丸い段落・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・片膝を座蒲団の上に突いて、灯心を掻き立てたとき、花のような丁子がぱたりと朱塗の台に落ちた。同時に部屋がぱっと明かるくなった。 襖の画は蕪村の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近とかいて、寒むそうな漁夫が笠を傾けて土手の上を通る。床には海中文・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
出典:青空文庫