・・・ただ思うにさえ、胸の時めく里である。 この年の春の末であった。―― 雀を見ても、燕を見ても、手を束ねて、寺に籠ってはいられない。その日の糧の不安さに、はじめはただ町や辻をうろついて廻ったが、落穂のないのは知れているのに、跫音にも、け・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 私はドキリとして、おかしく時めくように胸が躍った。九段第一、否、皇国一の見世物小屋へ入った、その過般の時のように。 しかし、細目に開けた、大革鞄の、それも、わずかに口許ばかりで、彼が取出したのは一冊赤表紙の旅行案内。五十三次、木曾・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・冷いが、時めくばかり、優しさが頬に触れる袖の上に、月影のような青地の帯の輝くのを見つつ、心も空に山路を辿った。やがて皆、谷々、峰々に散って蕈を求めた。かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 名古屋に時めく大資産家の婿君で、某学校の教授と、人の知る……すなわち、以前、この蓮池邸の坊ちゃんであった。「見覚えがおありでしょう。」 と斜に向って、お町にいった。「まあ。」 時めく婿は、帽子を手にして、「後刻、お・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・一雫も酔覚の水らしく、ぞくぞくと快く胸が時めく…… が、見透しのどこへも、女の姿は近づかぬ。「馬鹿な、それっきりか。いや、そうだろう。」 と打棄り放す。 大提灯にはたはたと翼の音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も籠る廂から・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ことにもその男が、世の中から正当に言われていない場合には、いっそう胸がときめくのである。青扇がほんとうにいま芽が出かかっているものとすれば、屋賃などのことで彼の心持ちをにごらすのは、いけないことだ。これは、いますこしそっとして置いたほうがよ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・青草の景色もあれば、胸のときめく娘もいた。 或る朝、三郎はひとりで朝食をとっていながらふと首を振って考え、それからぱちっと箸をお膳のうえに置いた。立ちあがって部屋をぐるぐる三度ほどめぐり歩き、それから懐手して外へ出た。無意志無感動の態度・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・優婉な紫の上が光君と一緒に、周囲の女性たちにおくる反物を選んでいるところはあるけれど、落窪物語はやはり王朝時代に書かれた物語ではあるけれども、ここに描かれている人たちは源氏物語のように時代にときめく藤原の大貴族たちではない。貴族でも貧乏貴族・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・ そうして静かな中にじいっと一つ物を見つめて居る事は今になってさえ止まない私の気持の良い胸のときめく様な気のする事である。 私はややしばらくの間、そうやって居た。 胸の中には何とも云い知れぬ喜びと平和な思いが満ち満ちて人が見たら・・・ 宮本百合子 「M子」
・・・の内容は占領下日本に時めく四十代の「大人」をもてなし、たのしませる好色ものや息子ものとなった。あのころも今も、「大人の文学」は、そのときどきの勢に属して戯作する文学であった。そして、人間は理性あるものであって、ある状況のもとでは清潔な怒りを・・・ 宮本百合子 「「下じき」の問題」
出典:青空文庫