・・・というものが、横光氏の説く如く古来の日記・随筆の文学形式の発展としてあらわれたものではなく「私」というものの近代的発展の発現であると主張している。「しかし個人主義時代の『私』と今日の『私』とはちがう。」「今日においては『私』を決定する想念は・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・お許しがないのに殉死の出来るのは、金口で説かれると同じように、大乗の教えを説くようなものであろう。 そんならどうしてお許しを得るかというと、このたび殉死した人々の中の内藤長十郎元続が願った手段などがよい例である。長十郎は平生忠利の机廻り・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・こう思って一日一日と例のごとくに勤めていた。 そのうちに五月六日が来て、十八人のものが皆殉死した。熊本中ただその噂ばかりである。誰はなんと言って死んだ、誰の死にようが誰よりも見事であったという話のほかには、なんの話もない。弥一右衛門は以・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ しかしこの或物が父に無いということだけは、花房も疾くに気が付いて、初めは父がつまらない、内容の無い生活をしているように思って、それは老人だからだ、老人のつまらないのは当然だと思った。そのうち、熊沢蕃山の書いたものを読んでいると、志を得・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・はその場の様子を目のあたり見るような思いをして聞いていたが、これがはたして弟殺しというものだろうか、人殺しというものだろうかという疑いが、話を半分聞いた時から起こって来て、聞いてしまっても、その疑いを解くことができなかった。弟は剃刀を抜いて・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・ 伯母やん、此奴どっこも行くとこが無うて困っとるのやが、ちょっとの間、世話してやっとくれ。」「そんなこと云うて来てお前。」 と勘次の母が顔を曇らせて云いかけると、安次は行司が軍扇を引くときのような恰好で、「心臓や、医者がお前、も・・・ 横光利一 「南北」
・・・「夢の中で数学の問題を解くというようなことは、よくあるんでしょうね。先日もクロネッカァという数学者が夢の中で考えついたという、青春の論理とかいう定理の話を聞いたが、――」「もうしょっちゅうです。この間も朝起きてみたら、机の上にむつか・・・ 横光利一 「微笑」
・・・しかしそれはあの男のためには、疾くに一切折伏し去った物に過ぎぬ。 暴風が起って、海が荒れて、波濤があの小家を撃ち、庭の木々が軋めく時、沖を過ぎる舟の中の、心細い舟人は、エルリングが家の窓から洩れる、小さい燈の光を慕わしく思って見て通るこ・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ただ言葉の間違いや事件の行き違いのほかに根のない誤解ならば、解くこともまたやすい。 しかし私は、人格の相違が誤解を必然ならしめる場合を少なからず経験する。それを解き得るものはただ大きい力と愛とである。私はそのためにはいまだあまりに弱い。・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・であって、その点、伝統的な思想と少しも変わらないのであるが、しかしその正直を説く態度のなかに、前代に見られないような率直さ、おのれを赤裸々に投げ出し得る強さが見られると思う。「上たるをば敬ひ、下たるをばあはれみ、あるをばあるとし、なきをばな・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫