・・・そうして日がとっぷり暮れると同時に、またそこを飛び出して、酒臭い息を吐きながら、夏外套の袖を後へ刎ねて、押しかけたのはお敏の所――あの神下しの婆の家です。 それが星一つ見えない、暗の夜で、悪く地息が蒸れる癖に、時々ひやりと風が流れる、梅・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・もう日がとっぷりとくれて、巣に帰る鳥が飛び連れてかあかあと夕焼けのした空のあなたに見えています。王子はそれをごらんになるとおしかりになるばかり、燕をせいて早くひとみをぬけとおっしゃいます。燕はひくにひかれぬ立場になって、「それではしかた・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・ 夢中でぽかんとしているから、もう、とっぷり日が暮れて塀越の花の梢に、朧月のやや斜なのが、湯上りのように、薄くほんのりとして覗くのも、そいつは知らないらしい。 ちょうど吹倒れた雨戸を一枚、拾って立掛けたような破れた木戸が、裂めだらけ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・背高き形が、傍へ少し離れたので、もう、とっぷり暮れたと思う暗さだった、今日はまだ、一条海の空に残っていた。良人が乗った稲葉丸は、その下あたりを幽な横雲。 それに透すと、背のあたりへぼんやりと、どこからか霧が迫って来て、身のまわりを包んだ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・それから、しおしおとして山をお下りなすった時は、もうとっぷり暮れて、雪が……霙になったろう。 麓の川の橋へかかると、鼠色の水が一杯で、ひだをうって大蜿りに蜒っちゃあ、どうどうッて聞えてさ。真黒な線のようになって、横ぶりにびしゃびしゃと頬・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・町へ入るまでに日もとっぷりと暮果てますと、「爺さイのウ婆さイのウ、 綿雪小雪が降るわいのウ、 雨炉も小窓もしめさっし。」 と寂しい侘しい唄の声――雪も、小児が爺婆に化けました。――風も次第に、ごうごうと樹ながら山を揺・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・夕暮の鷺が長い嘴で留ったようで、何となく、水の音も、ひたひたとするようだったが、この時、木菟のようになって、とっぷりと暮れて真暗だった。「どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……」「ああれ、旦那さん。」 と・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・四方の山々にとっぷりと霧がかかって、うさぎの毛のさきを動かすほどな風もない。重みのあるような、ねばりのあるような黒ずんだ水面に舟足をえがいて、舟は広みへでた。キィーキィーと櫓の音がする。 ふりかえってみると、いまでた予の宿の周囲がじつに・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・そのうちに、みぞれまじりの雨がしとしとと降りだしてきて、日はとっぷりと暮れてしまいました。二人は闇のうちに抱き合っていましたが、まったくその影が見えなくなってしまいました。 その夜のことです。この辺りには近来なかったような暴風が吹き、波・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・あたりがとっぷり暮れ、私がやっとそこを立ち上がったとき、私はあたりにまだ光があったときとはまったく異った感情で私自身を艤装していた。 私は山の凍てついた空気のなかを暗をわけて歩き出した。身体はすこしも温かくもならなかった。ときどきそれで・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
出典:青空文庫