・・・偃蹇として澗底に嘯く松が枝には舞い寄る路のとてもなければ、白き胡蝶は薄き翼を収めて身動きもせぬ。「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日と定まる仕合の催しに、後れて乗り込む我の、何の誰よと人に知らるるは興なし。・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・私はなおかかる問題について考えて見たことはないが、一例をいえば、俳句という如きものは、とても外国語には訳のできないものではないかと思う。それは日本語によってのみ表現し得る美であり、大きくいえば日本人の人生観、世界観の特色を示しているともいえ・・・ 西田幾多郎 「国語の自在性」
・・・だから、彼とても特別に急ぐような、見っともない事はしない。だが、「少し悠くりしすぎる」と思わずにはいられなかった。「おい。もう、半分燃えてるぞ!」 と、小林はすぐ後ろから、秋山へ喚いた。 が、秋山は、云わば、彼の痛い所を覗き込ん・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・此処とても直きに一杯の人になって了ったし、汽車がもう着くかもう着くかと、其方にばかし気を奪られて、彼の二三人の人の事は拭った様に忘れて居ました。 万歳の声が其那一体――プラットフォームからも、停車場の中からも盛んに起ると間もなく汽車が着・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・我輩とても敢て多弁を好むに非ざれども、唯徒に婦人の口を噤して能事終るとは思わず。在昔大名の奥に奉公する婦人などが、手紙も見事に書き弁舌も爽にして、然かも其起居挙動の野鄙ならざりしは人の知る所なり。参考の価ある可し。左れば今の女子を教うるに純・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・――その時はツルゲーネフに非常な尊敬をもってた時だから、ああいう大家の苦心の作を、私共の手にかけて滅茶々々にして了うのは相済まん訳だ、だから、とても精神は伝える事が出来んとしても、せめて形なと、原形のまま日本へ移したら、露語を読めぬ人も幾分・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・その目的は実に複雑であって、そうして一日の記事を凡そ新聞の一欄位に書きつめてしまわねばならぬので、普通の者ならばとてもこの目的を達する事は困難であるべきのを楽天は平気で遣ってのけて居る。よし辛うじてこの目的を達したところで最早その上に面白く・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・全くこの人は、救助区域があんまり下流の方で、とてもこのイギリス海岸まで手が及ばず、それにもかかわらず私たちをはじめみんなこっちへも来るし、殊に小さな子供らまでが、何べん叱られてもあのあぶない瀬の処に行っていて、この人の形を遠くから見ると、遁・・・ 宮沢賢治 「イギリス海岸」
・・・しかし、これとても、一方では、食物につながった社会問題なのである。婦人の労働問題の合理的な解決が必要である一方に、食糧事情の民主的解決が緊急事となって来ている。 そのために、各種の現存の機構、組合にしろ、購買組合にしろ、それはどのように・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・横田いよいよ嘲笑いて、お手前とてもその通り道に悖りたる事はせぬと申さるるにあらずや、これが武具などならば、大金に代うとも惜しからじ、香木に不相応なる価をいださんとせらるるは若輩の心得ちがいなりと申候。某申候は、武具と香木との相違は某若輩なが・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
出典:青空文庫