・・・昨夜は夜通し歩いて、今朝町の入口で蒸芋を一銭がとこ求めて、それでとにかく朝は凌いだ。握飯でもいい、午は米粒にありつきたいのだが、蝦蟇口にはもう二銭銅貨一枚しか残っていない。 私はそこの海岸通りへ出た。海から細く入江になっていて、伝馬や艀・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・が、とにかく、そのことがあってから、私は奉公を怠けだした。――というと、あるいは半分ぐらい嘘になるかもしれない。そんなことがなくても、そろそろ怠け癖がついているのです。使いに行けば油を売る。鰻谷の汁屋の表に自転車を置いて汁を飲んで帰る。出入・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・何カ月目だったか、とにかく彼女のいわゆるキューピーのような恰好をしていたのを、彼女の家の裏の紅い桃の木の下に埋めた――それも自分が呪い殺したようなものだ――こうおせいに言わしてある。で今度もまた、昨年の十月ごろ日光の山中で彼女に流産を強いた・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 喬はその話を聞いたとき、女自身に病的な嗜好があるのなればとにかくだがと思い、畢竟廓での生存競争が、醜いその女にそのような特殊なことをさせるのだと、考えは暗いそこへ落ちた。 その女はおしのように口をきかぬとS―は言った。もっとも話を・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・と言えども色に出づる不満、綱雄はなおも我を張りて、ではありますが、これが他人ならとにかく、あなたであって見れば私はどこまでも信ずるところを申します。私は強いてお止め申さんければならぬ。 黙らっしゃい。と荒々しき声はついに迸りぬ。私はもう・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ そう思うと樋口も木村もどこか似ている性質があるようにも思われますが、それは性質が似ているのか、同じ似たそのころの青年の気風に染んでいたのか、しかと私には判断がつきませんけれども、この二人はとにかくある類似した色を持っていることは確かで・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・「まかない棒というから、とにかく棒には違いないんだろう。」 彼は、醤油を煮ている大きな釜の傍にササラやタワシや櫂などを置いてある所を探しまわった。「何を探しよるんどい?」焚き火の方へ行こうとして事務所からやって来た仁助がきいた。・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・その頃は世間に神経衰弱という病名が甫めて知られ出した時分であったのだが、真にいわゆる神経衰弱であったか、あるいは真に漫性胃病であったか、とにかく医博士たちの診断も朦朧で、人によって異る不明の病に襲われて段衰弱した。切詰めた予算だけしか有して・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・これは問題である。とにかく、彼らは、一死を分として満足・幸福に感じて屠腹した。その満足・幸福の点においては、七十余歳の吉田忠左衛門も、十六歳の大石主税も、同じであった。その死の社会的価値もまた、寿夭の如何に関するところはないのである。 ・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 龍介はとにかく今日は真直に帰ろうと思った。 宿直の人に挨拶をして、外へ出た。北海道にめずらしいベタベタした「暖気雪」が降っていた。出口にちょっと立ち止まって、手袋をはきながら、龍介は自分が火の気のない二階で「つくねん」と本を読むこ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
出典:青空文庫