・・・しかし嗄れた婆さんの声は、手にとるようにはっきり聞えました。「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし」 婆さんがこう言ったと思うと、息もしないように坐っていた妙子は、やはり眼をつぶったまま、突然口を利き始め・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・上げ潮につれて灰色の帆を半ば張った伝馬船が一艘、二艘とまれに川を上って来るが、どの船もひっそりと静まって、舵を執る人の有無さえもわからない。自分はいつもこの静かな船の帆と、青く平らに流れる潮のにおいとに対して、なんということもなく、ホフマン・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・なんでもチャックの話によれば、このステュディオでは写真をとると、トックの姿もいつの間にか必ず朦朧と客の後ろに映っているとかいうことです。もっともチャックは物質主義者ですから、死後の生命などを信じていません。現にその話をした時にも悪意のある微・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・波打際が一面に白くなって、いきなり砂山や妹の帽子などが手に取るように見えます。それがまたこの上なく面白かったのです。私たち三人は土用波があぶないということも何も忘れてしまって波越しの遊びを続けさまにやっていました。「あら大きな波が来てよ・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・理屈を聞こうとしとるんではないのだ。早田は俺しの言うことが飲み込めておらんから聞きただしているのじゃないか。もう一度俺しの言うことをよく聞いてみるがいい」 そう言って、父は自分の質問の趣意を、はたから聞いているときわめてまわりくどく説明・・・ 有島武郎 「親子」
・・・どうやら顔が似とるじゃが」 今度は彼れの返事も待たずに長顔の男の方を向いて、「帳場さんにも川森から話いたはずじゃがの。主がの血筋を岩田が跡に入れてもらいたいいうてな」 また彼れの方を向いて、「そうじゃろがの」 それに違い・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次その数を増しつつある。今やどんな僻村へ行っても三人か五・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ その、もの静に、謹みたる状して俯向く、背のいと痩せたるが、取る年よりも長き月日の、旅のほど思わせつ。 よし、それとても朧気ながら、彼処なる本堂と、向って右の方に唐戸一枚隔てたる夫人堂の大なる御廚子の裡に、綾の几帳の蔭なりし、跪ける・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・「酔っとるでしゅ、あの笛吹。女どもも二三杯。」と河童が舌打して言った。「よい、よい、遠くなり、近くなり、あの破鐘を持扱う雑作に及ばぬ。お山の草叢から、黄腹、赤背の山鱗どもを、綯交ぜに、三筋の処を走らせ、あの踊りの足許へ、茄子畑か・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・が、ここに書きとると何だか誇張したもののように聞こえてよくない。もっとも読者諸賢に対して、作者は謹んで真面目である。処を、信也氏は実は酔っていた。 宵から、銀座裏の、腰掛ではあるが、生灘をはかる、料理が安くて、庖丁の利く、小皿盛の店で、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
出典:青空文庫