・・・ 老爺はこの湖水についての案内がおおかたつきたので、しばらく無言にキィーキィーをやっとる。予もただ舟足の尾をかえりみ、水の色を注意して、頭を空に感興にふけっている。老爺は突然先生とよんだ。かれはいかに予を観察して先生というのか、予は思わ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・夫婦ふたりの手で七、八人の子どもをかかえ、僕が棹を取り妻が舵を取るという小さな舟で世渡りをするのだ。これで妻子が生命の大部分といった言葉の意味だけはわかるであろうが、かくのごとき境遇から起こってくるときどきのできごととその事実は、君のような・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・「年をとったからだよ」「年をとるとお父さんだれでも死ぬのかい」「お父さん、お祖母さんもここにいるの」「そうだ」 予は思わずそう邪険にいって帰途につく。兄夫婦も予もなお無言でおれば、子どもらはわけもわからずながら人々の前を・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・「今の僕なら、どうせ、役場の書記ぐらいで満足しとるのやもの、徴兵の徴の字を見ても、ぞッとする程の意気地なしやけど、あの時のことを思うたら、不思議に勇気が出たもんや。それも大勢のお立て合う熱に浮されたと云うたら云えんこともなかろう。もう、死ん・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・しかし、まだ暑いので、褥を取る気にはならない。仰向けに倒れて力抜けがした全身をぐッたり、その手足を延ばした。 そこへ何物か表から飛んで来て、裏窓の壁に当ってはね返り、ごろごろとはしご段を転げ落ちた。迷い鳥にしてはあまりに無謀過ぎ、あまり・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ が、この円転滑脱は天禀でもあったが、長い歳月に段々と練上げたので、ことさらに他人の機嫌を取るためではなかった。その上に余り如才がなさ過ぎて、とかく一人で取持って切廻し過ぎるのでかえって人をテレさせて、「椿岳さんが来ると座が白ける」と度・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・実に取るに足りないような小国でありますが、しかしこの国について多くの面白い話があります。 今、単に経済上より観察を下しまして、この小国のけっして侮るべからざる国であることがわかります。この国の面積と人口とはとてもわが日本国に及びませんが・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・なぜ年を取るにつれて、悪い考えをもったり、まちがった考えをいだいたりするようになるものだろうか。ああ、自分も、どうかして、もう一度、なにも世の中のことを知らなかった、そして、なんでも美しく見える子供の時分になりたいものだ。しかし、流れた水が・・・ 小川未明 「幾年もたった後」
・・・ 人生の進歩というものは徐々として、時に破壊と建設の姿をとる場合もあるけれど又急速に飛躍して、其れを達しようとする場合もある。今私達の気持はどの点においても慌だしさを感じている事は事実だ。最も敏感である詩人に、この気持が分らない筈がない・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
・・・町へ着くには着いても、今夜からもう宿を取るべき宿銭もない。いや、午飯を食うことすらできないのだ。昨夜は夜通し歩いて、今朝町の入口で蒸芋を一銭がとこ求めて、それでとにかく朝は凌いだ。握飯でもいい、午は米粒にありつきたいのだが、蝦蟇口にはもう二・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫