・・・ 終点へ来たとき、私たちは別の電車を取るべく停留所へ入った。「神戸は汚い町や」雪江は呟いていた。「汚いことありゃしませんが」桂三郎は言った。「神戸も初め?」私は雪江にきいた。「そうですがな」雪江は暗い目をした。 私は・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・「一無辜を殺して天下を取るも為さず」で、その原因事情はいずれにもせよ、大審院の判決通り真に大逆の企があったとすれば、僕ははなはだ残念に思うものである。暴力は感心ができぬ。自ら犠牲となるとも、他を犠牲にはしたくない。しかしながら大逆罪の企に万・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・太田の初つぁんなんか、もう二人も子がでけとる。――」 母親は、三吉と小学校で同級だった町の青年たちの名をあげて、くりごとをはじめる。早婚な地方の世間ていもあるだろうが、何よりも早く倅の尻におもしをくっつけたい願望がろこつにでていた。・・・ 徳永直 「白い道」
・・・銀座の商店の改良と銀座の街の敷石とは、将来如何なる進化の道によって、浴衣に兵児帯をしめた夕凉の人の姿と、唐傘に高足駄を穿いた通行人との調和を取るに至るであろうか。交詢社の広間に行くと、希臘風の人物を描いた「神の森」の壁画の下に、五ツ紋の紳士・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・敏捷な赤蠅はけはいを覗って飛び去るので容易に捕ることが出来ない。太十は朝まだ草葉の露のあるうちに灰を挂けて置いたりして培養に意を注いだ。やがて畑一杯に麦藁が敷かれた。蔓は其上を偃った。蔓の末端は斜に空を向いて快げである。繊巧な模様のような葉・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 同時に多くのイズムは、零砕の類例が、比較的緻密な頭脳に濾過されて凝結した時に取る一種の形である。形といわんよりはむしろ輪廓である。中味のないものである。中味を棄てて輪廓だけを畳み込むのは、天保銭を脊負う代りに紙幣を懐にすると同じく小さ・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋をとると、赤い絹糸で括りつけた蚊遣灰が燻りながらふらふらと揺れる。東隣で琴と尺八を合せる音が紫陽花の茂みを洩れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云う・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・お前さんも、も少し年をとると分って来るんだよ」 私はヒーローから、一度に道化役者に落ちぶれてしまった。此哀れむべき婦人を最後の一滴まで搾取した、三人のごろつき共は、女と共にすっかり謎になってしまった。 一体こいつ等はどんな星の下に生・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・多分死なない程度の電流をかけて置いて、ピクピクしてる生き胆を取るんだろう。でないと出来上った六神丸の効き目が尠いだろうから、だが、――私はその階段を昇りながら考えつづけた――起死回生の霊薬なる六神丸が、その製造の当初に於て、その存在の最大に・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・政府の手を煩わすに及ばず、孝子の義務として之を討取る可し。曾我の五郎十郎こそ千載の誉れ、末代の手本なれなど書立てゝ出版したらば、或は発売を禁止せらるゝことならん。如何となれば現行法律の旨に背くが故なり。其れも小説物語の戯作ならば或は妨なから・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫