・・・「日本の神々様、どうか私が睡らないように、御守りなすって下さいまし。その代り私はもう一度、たとい一目でもお父さんの御顔を見ることが出来たなら、すぐに死んでもよろしゅうございます。日本の神々様、どうかお婆さんを欺せるように、御力を御貸し下・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 僕の投げ出したのは銅貨だった。 僕は屈辱を感じながら、ひとり往来を歩いているうちにふと遠い松林の中にある僕の家を思い出した。それは或郊外にある僕の養父母の家ではない、唯僕を中心にした家族の為に借りた家だった。僕はかれこれ十年前にも・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・天主閣はその名の示すがごとく、天主教の渡来とともに、はるばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物であるが、自分たちの祖先の驚くべき同化力は、ほとんど何人もこれに対してエキゾティックな興味を感じえないまでに、その屋根と壁とをことごとく日本化し去・・・ 芥川竜之介 「松江印象記」
・・・桑畑の中生十文字はもう縦横に伸ばした枝に、二銭銅貨ほどの葉をつけていた。良平もその枝をくぐりくぐり、金三の跡を追って行った。彼の直鼻の先には継の当った金三の尻に、ほどけかかった帯が飛び廻っていた。 桑畑を向うに抜けた所はやっと節立った麦・・・ 芥川竜之介 「百合」
・・・そのために、自分の家の会計を調べる時でも、父はどうかするとちょっとした計算に半日もすわりこんで考えるような時があった。だから彼が赤面しながら紙と鉛筆とを取り上げたのは、そのまま父自身のやくざな肖像画にも当たるのだ。父は眼鏡の上からいまいまし・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ところが芸術にたずさわっているものとしての僕は、ブルジョアの生活に孕まれ、そこに学び、そこに行ない、そこに考えるような境遇にあって今日まで過ごしてきたので不幸にもプロレタリアの生活思想に同化することにほとんど絶望的な困難を感ずる。生活や思想・・・ 有島武郎 「片信」
・・・飯本先生が一銭銅貨を一枚皆に見せていらっしゃいました。「これを何枚呑むとお腹の痛みがなおりますか」 とお聞きになりました。「一枚呑むとなおります」 とすぐ答えたのはあばれ坊主の栗原です。先生が頭を振られました。「二枚です・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・それで報酬はどうかというと一日一回三枚半で、一月が七円五十銭である。そこで活字が嬉しいから、三枚半で先ず……一回などという怪しからん料簡方のものでない。一回五六枚も書いて、まだ推敲にあらずして横に拡った時もある。楽屋落ちのようだが、横に拡が・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・旦那の智恵によると、鳥に近づくには、季節によって、樹木と同化するのと、また鳥とほぼ服装の彩を同じゅうするのが妙術だという。 それだから一夜に事の起った時は、冬で雪が降っていたために、鳥博士は、帽子も、服も、靴まで真白にしていた、と話すの・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・自分はなお一渡り奥の方まで一見しようと、ランプに手を掛けたら、どうかした拍子に火は消えてしまった。後は闇々黒々、身を動かせば雑多な浮流物が体に触れるばかりである。それでも自分は手探り足探りに奥まで進み入った。浮いてる物は胸にあたる、顔にさわ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
出典:青空文庫