・・・しばらくは首と首を合せて何かささやき合えるようであったが、このたびは女の方へは向わず、古伊万里の菓子皿を端まで同行して、ここで右と左へ分れる。三人の眼は期せずして二疋の蟻の上に落つる。髯なき男がやがて云う。「八畳の座敷があって、三人の客・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・というような訳だから、私はただ偶然そんなものを書いたというだけで、別に当時の文壇に対してどうこうという考も何もなかった。ただ書きたいから書き、作りたいから作ったまでで、つまり言えば、私がああいう時機に達して居たのである。もっとも書き初めた時・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・眼は戸の真中を見ているが瞳孔に写って脳裏に印する影は戸ではあるまい。外の方では気が急くか、厚い樫の扉を拳にて会釈なく夜陰に響けと叩く。三度目に敲いた音が、物静かな夜を四方に破ったとき、偶像の如きウィリアムは氷盤を空裏に撃砕する如く一時に吾に・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・例えば、一人の人が往来で洋傘を広げて見ようとすると、同行している隣りの女もきっと洋傘を広げるという。こういう風に一般に或程度まではそうです。往来で空を眺めていると二人立ち三人立つのは訳はなくやる。それで空に何かあるかというと、飛行船が飛んで・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・身体を犯すの病毒はこれを恐るること非常にして、精神を腐敗せしむるの不品行は、世間に同行者の多きがためにとて自らこれを犯して罪を免れんとす。無稽もまた甚だしというべし。故にかの西洋家流が欧米の著書・新聞紙など読みてその陰所の醜を探り、ややもす・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・ これを要するに維新の際、脱走の一挙に失敗したるは、氏が政治上の死にして、たといその肉体の身は死せざるも最早政治上に再生すべからざるものと観念して唯一身を慎み、一は以て同行戦死者の霊を弔してまたその遺族の人々の不幸不平を慰め、また一には・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・この夜また検疫官が来て、下痢症のものは悉く上陸させるというので同行者中にも一人上った者があった。自分も上陸したくてたまらんので同行の人が周旋してくれたが検疫官はどうしても許さぬ。自分の病気の軽くない事は認めて居るが下痢症でない者を上陸させろ・・・ 正岡子規 「病」
・・・太陽は磨きたての藍銅鉱のそらに液体のようにゆらめいてかかり融けのこりの霧はまぶしく蝋のように谷のあちこちに澱みます。(ああこんなけわしいひどいところを私は渡って来たのだな。けれども何というこの立派 諒安は眼を疑いました。そのいちめん・・・ 宮沢賢治 「マグノリアの木」
・・・女もひっくるめた全人民の生存のための問題であり、女子労働の悪条件と悲劇的な女子失業の現象は、とりも直さず全勤労人口の問題であるとして捉えられたとき――問題のそういう把握を可能としている日本社会の今日の動向そのものの中に、はっきり、問題の現実・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」は総括的にこの時期を展望している。プロレタリア文学運動の組織とその作家たちのうけた被害の姿を眺めて、居直ったブルジョア文学とその作家が、横光利一の「紋章」をかざして、一方に擡頭しつつあるファッシズ・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
出典:青空文庫