・・・水ぎわには昼でも淡く水蒸気が見えるが、そのくせ向河岸の屋根でも壁でも濃くはっきりと目に映る。どうしてももう秋も末だ、冬空に近い。私は袷の襟を堅く合せた。「ねえ君、二三日待ちなせえよ。きっと送るから。」と船に乗り移る間ぎわにも、銭占屋はそ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ しかし、ふと女が素足にはいていた藁草履のみじめさを想いだすと、もう新吉は世間に引き戻されて情痴のにおいはにわかに薄らいでしまった。 どうしても会わねばならないと思いつめた女の一途さに、情痴のにおいを嗅ぐのは、昨日の感覚であり、今日・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・それでもどうしても云うことを聴かない奴は、懲 これがKの、西蔵のお伽噺――恐らくはKの創作であろう――というものであった。話上手のKから聴かされては、この噺は幾度聴かされても彼にはおもしろかった。「何と云って君はジタバタしたって、所・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・私は病気の故でその頃夜がどうしても眠れないのでした。その晩もとうとう寝床を起きてしまいまして、幸い月夜でもあり、旅館を出て、錯落とした松樹の影を踏みながら砂浜へ出て行きました。引きあげられた漁船や、地引網を捲く轆轤などが白い砂に鮮かな影をお・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・年、自分は美少年ではあったが、乱暴な傲慢な、喧嘩好きの少年、おまけに何時も級の一番を占めていて、試験の時は必らず最優等の成績を得る処から教員は自分の高慢が癪に触り、生徒は自分の圧制が癪に触り、自分にはどうしても人気が薄い。そこで衆人の心持は・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・しかし幸福説は道徳的意識の深みと先験性とをどうしても説明し得ない。それは量的に拡がり得るが質的のインテンシチイにおいてはなはだ足らず、心奥の神秘を探究するのにいかにも竿が短かい。幸福主義は必ず結果主義と結びつき、動機を重んずる人格主義と対立・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・「道が、どうしても、」松木は息切れがして、つづけてものを云うことが出来なかった。「どうしても、分らないんであります。」「露助は、どうしてるんだ。」「はい。スメターニンは、」また息切れがした。「雪で見当がつかんというのであります。・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・で、なかなか立派に見える中村が、客座にどっしりと構えて鷹揚にまださほどは居ぬ蚊を吾家から提げた大きな雅な団扇で緩く払いながら、逼らぬ気味合で眼のまわりに皺を湛えつつも、何か話すところは実に堂々として、どうしても兄分である。そしてまたこの家の・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
誰よりも一番親孝行で、一番おとなしくて、何時でも学校のよく出来た健吉がこの世の中で一番恐ろしいことをやったという――だが、どうしても母親には納得がいかなかった。見廻りの途中、時々寄っては話し込んで行く赫ら顔の人の好い駐在所・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・「ああいうところは、どうしても次郎ちゃんだ。」 と、宿屋の亭主は快活に笑った。 ややもすれば兄をしのごうとするこの弟の子供を制えて、何を言われても黙って順っているような太郎の性質を延ばして行くということに、絶えず私は心を労しつづ・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫