・・・どう直せばいいのか、書きはじめの気持そのものが自分にはどうにも思い出せなくなっていたのである。こんなことにかかりあっていてはよくないなと、薄うす自分は思いはじめた。しかし自分は執念深くやめなかった。また止まらなかった。 やめた後の状態は・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・思い出してみれば、どうにも心の動きがつかなかったような日が多かったなかにも、南葵文庫の庭で忍冬の高い香を知ったようなときもあります。霊南坂で鉄道草の香りから夏を越した秋がもう間近に来ているのだと思ったような晩もあります。妄想で自らを卑屈にす・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・「やっこさん、あの雨にどしどし降られたので、どうにもこうにもやりきれなくなって、そこの土手からころがり落ちて線路の上へぶったおれたのでしょう。」と、人夫は見たように話す。「なにしろ哀れむべきやつサ。」と巡査が言って何心なく土手を見る・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・ いや、彼等は、役人に反抗したが、結局、どうにもせられなかった。 彼等は、やったゞけ、やり得だったのである。 黒島伝治 「豚群」
・・・ マルキストにお守では、どうにもおさまりがつかない、俺は独りでテレてしまった。 中を開けてみると「文珠菩薩真言」として、朝鮮文字のような字体で、「オン、ア、ラ、ハ、シャ、ナウ」と書かれている。「オン、ア、ラ、ハ………………。」・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・この国府津時代に書きつけた、ノオト・ブックを後で見たが、自分はもうどうにもこうにも仕様が無くなったから、一切の義務なんかというものを棄てて了って、西行のような生活でも送って見たい、というようなことが書きつけてある所もあり、自分の子供にはもう・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・歩いて歩いて、終にはどうにもこうにも前へ出なく成って了った足だ。日の映った寝床の上に器械のように投出して、生きる望みもなく震えていた足だ…… その足で、比佐は漸くこの仙台へ辿り着いた。宿屋の娘にそれを言われるまでは実は彼自身にも気が着か・・・ 島崎藤村 「足袋」
・・・次女は、卓の上に頬杖ついて、それも人さし指一本で片頬を支えているという、どうにも気障な形で、「ゆうべ私は、つくづく考えてみたのだけれど、」なに、たったいま、ふと思いついただけのことなのである。「人間のうちで、一ばんロマンチックな種属は老人で・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・佐吉さんでも居なければ、私にはどうにも始末がつかなかったのです。汽車賃や何かで、姉から貰った五十円も、そろそろ減って居りますし、友人達には勿論持合せのある筈は無し、私がそれを承知で、おでんやからそのまま引張り出して来たのだし、そうして友人達・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・健康ならばどんなにでも仕事の能率の上がる時でありながら気分が悪くて仕事が思うように出来ず、また郊外へ散歩にでも行けばどんなに愉快であろうと思うが、少し町を歩いただけで胃の工合が悪くなってどうにも歩行に堪えられなくなる。歩かなくても電車や汽車・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
出典:青空文庫