・・・ S先生が生きてさえおられれば、もう一遍よく御尋ねして確かめる事が出来るのであるが残念なことには数年前に亡くなられたので、もうどうにも取返しがつかない。もしS先生の御遺族なりあるいは親しかった人達を尋ねて聞いて歩いたら、あるいはその断片・・・ 寺田寅彦 「埋もれた漱石伝記資料」
・・・……何でも秋山さんは深い水の底にあった、大きな木の株に挟まっていたそうでね、忰は首尾よく秋山さんを捜しあてたにゃ当てたけれど、体へ掴まられたんで、どうにも恁にも足が取れなくなって了ったものなんだ。いくら泳ぎが巧くたって大の男に死物狂いで掴ま・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、竹刀を落したものだから、どうにも、こうにもしようがないやあね」「ふうん。竹刀を落したのかい」「竹刀は、そら、さっき、落してしまったあね」「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・理窟や議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない。あらゆる多くの人々の、あらゆる嘲笑の前に立って、私は今もなお固く心に信じている。あの裏日本の伝説が口碑している特殊な部落。猫の精・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・と聞いて見る慾望をどうにも抑えきれなくなった。云いかえれば人間はこんな状態になった時、一体どんな考を持つもんだろう、と云うことが知りたかったんだ。 私は思い切って、女の方へズッと近寄ってその足下の方へしゃがんだ。その間も絶えず彼女の目と・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・釣れるときにはこんなにあっけなくかかるのに、釣れないとなると、どうにもしかたがないものである。私が成功したのは後にも先にもこれが一回きりだ。 釣りあげられた河豚は腹を立てて、まん丸く、フットボールのようにふくらんだ。これを船底にたたきつ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・けれどもどうにもしかたがありませんでしたから、やっぱりじっと立っていたのです。 雲の縞は薄い琥珀の板のようにうるみ、かすかなかすかな日光が降って来ましたので、本線シグナルつきの電信柱はうれしがって、向こうの野原を行く小さな荷馬車を見なが・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・しかし、ごく表面しか見ることのできない一人の婦人旅行者であるわたしの眼に映った一九二九年のロンドンは、マクドナルドの労働党ではどうにも救いのない状態だった。ロンドンの東と西にある階級のちがい、生活のちがいが、同じイギリス人とよばれる人々の人・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第八巻)」
・・・それだから私の訳文はその場合のほとんど必然なる結果として生じて来たものである。どうにもいたしかたが無いのである。 世間では私の訳を現代語訳だと云っている。しかし私は着意して現代語にしようとするのでは無い。自然に現代語となるのである。世間・・・ 森鴎外 「訳本ファウストについて」
・・・たとえ眠られぬ真夜中に、堅い腰掛けの上で痛む肩や背や腰を自分でどうにもできないはかなさのため、幽かな力ない嘆息が彼らの口から洩れるにしても。 私はこんな空想にふけりながら、ぼんやり乳飲み児を見おろしている母親の姿をながめ、甘えるらしく自・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫