・・・ 私たちは躊躇せず下宿の門をくぐり、玄関から、どかどか二階へ駈けあがった。 佐伯が部屋の障子をあけようとすると、「待って下さい。」と懸命の震え声が聞えた。やはり、女のように甲高い細い声であったが、せっぱつまったものの如く、多少は・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・耕一などはあんまりもどかしいもんですから空へ向いて、「ホッホウ。」と叫んで早く息を吐いてしまおうとしました。するとその子が口を曲げて一寸笑いました。 一郎がまだはあはあ云いながら、切れ切れに叫びました。「汝ぁ誰だ。何だ汝ぁ。」・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ われの家われと焼くが何でえけねえ、どかねえと打っ殺すぞ」 馬さんその他上って来て、種々仲裁したが、勇吉はなかなかきかない。「おらあ、火いつけりゃあ牢にへえる位知ってるだ! ああ知ってするごんだよ、だから放っといてくんろ、畜生! 面・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・ 田端の汽車は、いつも動いているから目をはなせないし、牧田の牛はのろりのろりと動くから、また面白くて、なかなかその竹垣からどかれなかった。 大きい方の弟が、牧場の土のところどころにある黒い堆積をさして、「ねえ、あれ、牛のべたくそ・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・ まどから見おろす庭の萩ショッキがうちきらしくうなだれてこまっかい樫の葉一枚一枚のふちが秋の日に黄金色にかがやいて居る。しずかだ。 二つの心 二つの人間はピッタリと並んで歩いて居る。その後に長く引いて居る影もその・・・ 宮本百合子 「芽生」
出典:青空文庫